日本医療政策機構(Health and Global Policy Institute) グローバルな医療政策シンクタンク

今回のHGPIセミナーでは、三重大学大学院医学系研究科公衆衛生・産業医学・実地疫学分野 教授の神谷元氏をお迎えし、日米での実地疫学調査や予防接種政策に携わられたご経験を踏まえて、エビデンスに基づく予防接種政策のあり方についてお話しいただきました。

<POINT>

  • 米国では、小学校入学までに合計5回の百日咳ワクチン接種が推奨され、成人用三種混合ワクチン(Tdap)の接種も11-12歳時に定期接種として推奨されている。しかし、2012年のワシントンでの百日咳の集団感染を受けて実施した実地疫学調査により、Tdapの効果や持続期間、さらなる追加接種の評価が行われた。得られた新たなエビデンスを踏まえて政策の優先度が変わり、近年では、乳幼児の感染予防を目的として、妊婦やその家族、医療従事者へのワクチン再接種が推奨されている。
  • 日本では百日咳は2018年から全数把握に移行し、乳幼児だけでなく学童期や成人の感染状況、乳児の重症例の疫学が明確になった。特に学童期の患者の多くは全4回の定期接種を完了していることが判明しており、国内のエビデンスを基に、就学前児童への追加接種及び妊婦やその家族、医療従事者への接種推進を進める必要がある。
  • エビデンスに基づいた予防接種政策を実践するためには、質の高いサーベイランスを実施し、感染動向等を把握したうえで、エビデンスを構築できる体制の強化が不可欠である。
  • 世界の多くの国ではNITAGと呼ばれる政府から独立した諮問機関が整備されている。エビデンスを評価し、政府等に助言する専門家組織として機能し、政策立案を支えている。
  • 科学的事実や専門家に対する社会の信頼が、エビデンスに基づく予防接種政策の基盤となる。予防接種従事者や市民への的確な教育と啓発活動が不可欠であり、特にSNS時代における情報の多様化に対応するための取り組みが重要である。

■日米の百日咳対策からみる予防接種政策とエビデンス

近年、日本では百日咳が流行している。百日咳は激しい咳の発作や呼吸困難、発熱、嘔吐などを引き起こす感染症で、特に乳児では重症化や死亡例もみられる(致命率は1000人に1人程度とされている)。感染力は極めて強く、家庭内に百日咳ワクチン未接種者がいる場合、90%の確率で感染する。現在百日咳菌感染を完全に予防する百日咳ワクチンは存在しないが、最もリスクの高い新生児・乳幼児を予防接種によって防ぐことはできる感染症の1つであると考える。

米国では、百日咳ワクチンの予防接種政策をエビデンスに基いて柔軟に見直してきた。10年ほど前までは、乳幼児期に4回、小児期に1回、さらに10歳から11歳に1回と、合計6回接種が推奨されていた。しかし、2012年にワシントンでティーンエイジャーを中心とした百日咳の集団感染が発生した。集団感染を受けて、米国疾病予防管理センター(CDC: Centers for Disease Control and Prevention)や保健所が詳しく疫学調査を実施したところ、効果持続期間が5年から10年と見込まれていたTdapが、実際には接種後2年から4年で予防効果が約30%まで低下することが判明した。また、さらなるTdapの追加接種は感染予防に一定の効果があるものの、流行全体を抑制するには不十分であり、感染のピーク年代を後退させるだけであることが明らかになった。こうした新たなエビデンスを踏まえ、米国の専門家諮問機関(ACIP: Advisory Committee on Immunization Practices)は、予防接種による百日咳のコントロールから、乳幼児の感染予防を最優先とする方針に政策を切り替え、妊婦やその家族、医療関係者への再接種を推奨する戦略を導入した。

日本では、百日咳ワクチンは乳幼児期の4回接種が定期接種として実施され、常に高い接種率を維持してきた。2018年から百日咳の全数把握(全数サーベイランス)が始まり、年代別の患者数が初めて明らかになった。これにより、学童期患者の増加、学童期の感染者の約8割が全4回の定期接種を完了していること、乳児の患者数や感染源(特に兄弟姉妹から乳児への感染が多いこと)、重症化事例の状況等が明らかになった。これらの国内の実態を反映した新たなエビデンスに基づいて、日本でも積極的に政策を見直し、新たな方向性を検討することが求められる。具体的には、就学前児童への追加接種導入や、妊婦やその家族、医療従事者への積極的な接種推進が期待される。加えて、全数把握疾患への移行により、主に定点小児科医療機関に限定されていたサーベイランスの対象が成人にまで拡大され、より詳細かつ包括的な百日咳の発生動向の把握が可能になり、今後成人の百日咳に関するエビデンスの構築が期待される。

■エビデンスに基づいた予防接種政策を支える体制

エビデンスに基づいた意志決定(EBDM: Evidence-Based Decision Making)には、信頼できるエビデンスを構築する基盤と、そのエビデンスを正しく評価して政策に反映す体制が不可欠である。

米国では、質の高いサーベイランスを通じて患者数の把握やその増減を的確に把握している。その根幹を支えるのは、予防接種事業に従事する保健所職員の十分な人員配置及びCDCが管理する潤沢な予算である。アウトブレイク発生時もCDCは迅速に予算措置を行い、速やかな現地調査等を実施している。この迅速な対応がエビデンスの創出に大きく寄与している。

これらのエビデンスを正しく評価し、政策に繋げる仕組みの代表がACIPである。ACIPは専門家で構成され、政府や保健省、CDCに独立した立場で助言を行う諮問機関である。GRADE(Grading of Recommendations Assessment, Development and Evaluation)システムに基づき、エビデンスの質を厳密かつ透明性を持って評価することで、信頼性の高い提言を実現している。また、ACIPの会議は日程が数年先まで綿密に計画され、議題案も公開されており、研究者や民間企業が計画的にエビデンス構築に取り組みやすい環境を整えている。くわえて、ACIPに参加しているリエゾン(予防接種に関連する学会や組織の代表者)を通じて関連情報が一元化されるため、誤情報の発生、拡散リスクが低減され、政策の実効性向上に寄与している。

このような独立した立場から政府等に助言を行う専門家組織は、世界保健機関(WHO: World Health Organization)がNational Immunization Technical Advisory Committees(NITAG)として定義し、既に120カ国以上で設置されている。NITAGの設置は、定期接種化プロセスの明確化や、今後求められるワクチンの同定を促進し、予防接種政策推進の加速化に貢献することが期待されている。日本も最近Global NITAG Networkに加盟しており、今後の動向が注目される。

■エビデンスに基づいた予防接種政策に必要な社会の理解

エビデンスに基づいた予防接種政策は、その完遂に向けた強い意志と共に、科学的根拠及び専門家に対する社会の信頼が不可欠である。現代ではSNS等の普及により、科学的根拠や事実よりも逸話やエピソードが強い影響を持つ場合もある。そのため、科学的根拠への理解を深めるための教育や啓発・学修支援が重要である。

国の科学的根拠及び専門家に対する信頼、予防接種政策に関する理解は国の予防接種政策の在り方にも大きく影響する。例えば、フィンランドの予防接種政策や米国のVaccine For Children Programのように、国が予防接種制度の財源やワクチンの提供体制を管理する事例がある。国の財源を活用して、費用対効果に基づく価格設定や大量購入(バルク購入)による効果的な価格交渉を国自身が行うため、効率的かつ安定的な予防接種を市民に提供することが可能となる。国民が予防接種政策の恩恵を平等に受領できる環境の達成には、まず社会全体の予防接種に対する理解と制度の構築が強く求められる。

同時に、社会全体の予防に対する意識の向上も求められる。米国では、保健所が子どもを持つ家庭向けにわかりやすい予防接種情報を継続的に発信し、幼少期の子どもへの教育も担っている。さらに、実際にワクチン接種を行う医療従事者に向けたe-learningの教材が整備されており、研修医を含む予防接種従事者への教育が拡充されている。日本では、医療系の大学等において予防接種に関する教育が十分に実施されない場合も多く、予防接種従事者への教育体制の強化が急がれる。三重大学では予防接種従事者向けの教材を作成し、医学部生や大学院生向けの予防接種教育を、リカレント教育やe-learning教材等を用いて多角的に進めているところである。

日本国内で接種可能なワクチンの種類は、近年の導入拡大により国際的に見ても遜色のない水準に達している。しかしながら、日本では他国に見られるような「学校入学時に必要とされる接種の義務化制度」や「強制的に接種率を担保する仕組み」が存在せず、定期接種であっても接種率の達成と維持には依然として課題がある。日本においては、制度的背景を補う形で、予防接種従事者が正しい知識と技術を確実に身につける教育体制を整えることが極めて重要である。

【開催概要】

  • 登壇者: 神谷 元 氏(三重大学大学院医学系研究科公衆衛生・産業医学・実地疫学分野 教授)
  • 日時:2025年4月25日(金) 18:30-19:45
  • 形式:オンライン(Zoomウェビナー)
  • 言語:日本語
  • 参加費:無料
  • 定員:500名

■登壇者プロフィール

神谷 元(三重大学大学院医学系研究科公衆衛生・産業医学・実地疫学分野 教授)

1999年3月三重大学医学部卒業、医師免許取得後聖路加国際病院小児科での研修を経て、2004年9月より米国サンディエゴ郡保健所予防接種課にて研修、勤務。 2008 年5月米国アトランタエモリー大学公衆衛生大学院にて公衆衛生修士取得。2008年8月より国立感染症研究所感染症情報センター研究員、2012年3月ロタウイルスの疫学研究で博士号を取得(藤田医科大学ウイルス・寄生虫学講座)後、米国Centers for Disease Control and Prevention(CDC)にてEpidemic Intelligence Services(EIS)にて研修。2014年8月より国立感染症研究所感染症疫学センター主任研究官、2021年4月同実地疫学研究センター主任研究官を経て2022年4月より国立感染症研究所 感染症疫学センター 予防接種総括研究官/実地疫学研究センター FETPファシリテーター併任。2024年2月より現職。専門領域は、感染症疫学、予防接種、感染症サーベイランス、小児科学。現職の他日本小児科学会予防接種・感染症対策委員会委員、日本ワクチン学会理事、日本外来小児科学会予防接種委員会委員、小児科専門医、社会医学系専門医・指導医を務める。

関連記事: