【証言 インタビュー全文】元警視総監、強制捜査2日前に事件…「オウムに挑戦されている」と予定通り実施
オウム真理教による地下鉄サリン事件が起きてから3月20日で30年となる。首都・東京を狙った類例のない無差別化学テロ。警視総監として捜査の陣頭指揮を執った井上幸彦さん(87)が、教団と 対峙(たいじ) した思いを語った。(甲府支局 次井航介)
1994年9月に、警視総監に就任しました。その頃、オウム真理教の存在は知っていましたが、警視庁の管轄で、教団の関与が疑われる事件は起きておらず、まさか自分が捜査に携わるとは思ってもいませんでした。
オウム真理教による地下鉄サリン事件を振り返る井上幸彦・元警視総監(17日、東京都港区で)=田中秀敏撮影状況が変わったのは95年2月28日です。
目黒公証役場事務長だった仮谷清志さん(当時68歳)が東京都品川区の路上で拉致される事件が起きました。捜査を進めると、教団信者の一人が関与している疑いが浮上しました。警視庁管内でも事件を起こされ、「本気になってオウムと戦わなければいけない」と思ったのを覚えています。
――信者に拉致された仮谷さんは、車内や山梨県旧上九一色村の教団施設で麻酔薬を打たれ、翌日に亡くなった。教団信者だった仮谷さんの妹を巡るトラブルが動機とされる。
事件の後、オウムへの強制捜査に向けて、私と副総監、刑事部長、公安部長、警備部長による「5者会議」を毎日開き、捜査方針などを協議していました。仮谷さんを生きたまま救出することが目的です。そして、Xデー(教団施設への強制捜査)を3月22日と決めました。
――95年3月20日朝、地下鉄サリン事件が発生した。
日比谷線神谷町駅から運び出される乗客ら(1995年3月20日午前、画像は一部修整しています)その日、私は用事があって、いつもより早い午前8時前に公用車で出勤しました。国会議事堂の近くを通りかかると、パトカーがサイレンを鳴らして走り回っているのが見えました。
「これは何かとんでもないことが起きた」。そう感じました。ただ、警視庁近くの地下鉄霞ヶ関駅付近では、まだ被害者らが外に運び出されている状況ではありません。
警視庁に着いて警視総監室に入ったものの、なかなか状況がつかめませんでした。やがて「地下鉄駅構内から被害者が次々に外に運び出されている」との報告が入ってきて、すぐに「オウムにやられたな」と思いました。
なかなか(犯行に)何が使われたかわかりませんでしたが、午前10時前ぐらいでしたかね。刑事部長が私の部屋に飛び込んできました。駅構内の水たまりの水を脱脂綿に取り、科学捜査研究所で分析したら「サリン」の反応が出たということでした。
サリンが使われたという犯人にしか知り得ない秘密。刑事部長から「これは発表しますか」と聞かれ、「人命に関わる問題だから即発表」と言いました。
間もなくテレビのテロップで、「使われたのはサリン」という情報が流れました。後になって、治療に当たった医師から、テレビのテロップを見て、サリン中毒に対応する治療ができたと聞きました。
捜査情報であっても、その持つ意味合いをよく考え、公表するか否かの判断をする重要性を感じました。
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――地下鉄サリン事件が起き、その後の捜査方針に関して激論が交わされた。
事件が起きた後は、とにかく情報収集に追われました。現場の捜査員らはサリンをまいた人物の特定を急ぎました。
山梨県旧上九一色村にあったオウム真理教の施設に捜索に入る機動隊員(読売ヘリから。1995年3月22日撮影)私たち幹部は昼夜問わず、5者会議を行っていました。既に決まっていたXデーをずらさずに捜査に入るのか。それとも遅らせて様子を見てから踏み込むのか。その判断を迫られていたからです。
我々は、教団の拠点を全て当たるつもりでしたが、猛毒の神経ガスがまかれたばかりです。「いったん後ろに延ばして様子を見よう」という意見や、「都内の彼らの拠点を当たってジャブを打ち、相手の出方を見た方がいい」という慎重論も出ました。
私は覚悟を決めてこう言いました。「我々は教団に挑戦されている。後ろに延ばしたり、都内の拠点だけを捜索したりするということになったら、オウムは『警視庁がビビり出した』となって、さらに何かやるぞ。絶対大丈夫だから攻めていこう」
予定通り22日に教団施設などに強制捜査に入ることが決まりました。
――3月22日、警視庁は、仮谷清志さん拉致事件で、信者の一人について逮捕監禁容疑で逮捕状を取るとともに、旧上九一色村の教団施設など1都2県の関連施設25か所を捜索した。
当日は午前5時前に家を出て、警視庁内の刑事部の指揮所に行きました。指揮所は、誘拐事件などが起きた際に設けて、刑事部の幹部らが無線の情報などを集約し、捜査の指示を出す場所です。
普通は、刑事部長などが捜査指揮を執るのですが、事件の大きさもあり、現場の捜査員の士気を高めようと思いました。警視総監が指揮所に入るのは初めてのことだったかもしれません。
刑事部長とは「仮谷さんをとにかく救出する」「(仮谷さんの事件に関与していた)容疑者を捕まえて警視庁に身柄を持ってくることを第一に考える」と話をしました。
強制捜査の様子は、テレビと、捜査員が撮影しているものの二つで見ていました。あれほど時間がかかると思っていませんでした。オウムが貯蔵している薬品はとても多く、有毒な物質になり得るようなものもあります。それらを全部押さえなければいけない。1日で捜索が終わるような量ではありませんでした。
教団施設への強制捜査は、仮谷さんを生きたまま救出するために行ったものです。ただ、その時点では既に仮谷さんは亡くなっていたことを後から知りました。
遺体は教団によって焼き尽くされ、遺灰も遺髪も残っていない。人命を軽視する教団への怒りと、命を救えなかった無念さが心に湧いてきたのを覚えています。
――警視庁は95年5月16日午前5時25分から、機動隊員、捜査員2000人を動員して旧上九一色村などにある教団施設を捜索。同村の教団施設「第6サティアン」で教祖の麻原彰晃こと松本智津夫元死刑囚を殺人・殺人未遂容疑で逮捕した。
逮捕され、警視庁に護送される麻原彰晃こと松本智津夫元死刑囚(1995年5月16日撮影)あの日の早朝、警視庁の指揮所に入り、捜査の様子をモニターで見ていました。施設の周辺は霧が出ていて何か不気味な感じがしました。
松本元死刑囚を捕まえることが目的でした。ただ、なかなか見つからない。「おかしいな」とは思いましたが、時間をかければ見つけられると思っていたので焦りはありませんでした。数時間たってから「麻原確保」の報告が現場から入ってきました。
「残っているサリンはないということと、松本元死刑囚を見つけたことを発表できる。国民に安心してもらえる」という気持ちが強かったです。ようやく一区切りついたなという感じでしたね。
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