「祖国は台湾、母国は日本」シベリア抑留から生還した元日本兵98歳が問う、戦後の不条理 #戦争の記憶
2025年夏。東京の国立千鳥ヶ淵戦没者墓苑で、シベリア・モンゴル抑留犠牲者の追悼式が開かれた。そこには、白寿(数えで99歳)を迎えた台湾出身の元日本兵 呉正男さんの姿があった。呉さんはソ連に2年間抑留され、日本に帰還。しかし、敗戦で日本は台湾を放棄し、呉さんは日本国籍を失った。2010年、シベリア抑留者に平均28万円の特別給付金を支払う法律が制定された。だが、対象は日本人に限定され、呉さんに給付金は支給されなかった。戦後80年。呉さんが、伝えたい思いとは。
■日本の愛国少年、大山正男の誕生
「僕は、言葉もずっと幼稚園から日本語。13歳から日本で育って、80年以上もずっと日本に住んでいるからね。日本語が一番自然」
呉さんは1927年8月4日、台湾中南部の斗六市で生まれた。日清戦争後の下関条約(1895年)で台湾は日本の統治下に入り、エリート層を中心に日本語が浸透していた。台南市の役人だった父・開興さんも、日本語が堪能だった。
31年の満州事変後に、日本語の普及を目的とした「国語家庭」の制度ができた。台湾人家庭の全員が日本語を話す場合、申請が認められると日本人の通う小学校に子どもが入学できるなどの優遇措置が受けられた。呉家も認定され、呉さんはプールや立派な講堂がある小学校で学び、今でも教育勅語を暗唱できる。
姓名を日本風に改めることを奨励する「改姓名運動」により、父親が「大山」に改姓。呉さんは12歳で「大山正男」になった。13歳で親元を離れ日本に渡り、東京・中野の旧制中野学園中学校に入った。太平洋戦争が始まったのはその年の暮、41年12月8日のことだった。
その頃の生活は、必ずしもつらいわけではなかった。下宿先のおばさん、永野ヤノさんにわが子のようかわいがられた。一緒に茨城県の農家まで買い出しに出かけたり、ヤノさんの姪の眞佐子さんに淡い恋心を抱いたりもした。
ただ、2年生になると軍事教練が正式科目となり、3年生からは学徒動員で軍需工場に通い始めた。このころ剣道が初段となり、心身ともに硬派な「愛国少年・大山正男」になっていった。
■「空の神兵」で有名な部隊に
43年5月、ベーリング海・アッツ島の日本軍守備隊が全滅し、「玉砕」という言葉が初めて報じられた頃、学徒出陣が始まる。16歳の愛国少年が「日本のために頑張ろう」と「陸軍特別幹部候補生」に志願したのは自然の成り行きだった。呉さんは、陸軍航空通信学校(水戸市)の長岡教育隊に入隊。1年後には落下傘部隊「空の神兵」で有名な「挺進滑空飛行第一戦隊」の通信兵になっていた。
16歳で「陸軍特別幹部候補生」に志願45年5月、部隊は朝鮮北部に移動。そこで待っていたのが「沖縄義号作戦」だった。米軍が占拠していた沖縄の飛行場にグライダーで強行着陸し、破壊活動にあたる特攻作戦だ。呉さんは振り返る。
「神社に集められまして並んでいたら、紙を渡されて。紙には『志望』『熱望』『熱烈望』の3つがあり、『丸をつけろ』と。死ぬ順番が来たなと思って『熱烈望』につけたのを覚えております。後で隊長にきいたら、全員が『熱烈望』に丸をつけていたそうです。みんな生きて帰れるとは思っていなかった」
■壁にかけた帽子が日本人少女に見えた
呉さんが義号作戦に投入されることはなかった。8月9日、ソ連が満州、朝鮮、樺太に侵攻。8月15日、日本はポツダム宣言を受諾し降伏した。
しかし、呉さんの戦争は終わらなかった。北朝鮮の38度線近くで、乗っていた汽車がソ連の将校に停められたのだ。
「男はみんな降りろ。軍人は一歩前で出ろ」
呉さんはシベリア鉄道に乗せられ、それから23日間、汽車に揺られることになる。着いたのはカザフスタンのグズイル・オルダ収容所。その名はカザフ語で「赤い町」を意味すると後に知った。冬はマイナス25度、夏は40度以上になる地で1600人余りの抑留者と共に運河工事などに従事した。
60余万人が収容されていた日本人収容所、赤い□がグズイル・オルダ収容所現在のカザフスタンのグズイル・オルダ付近グズイル・オルダ収容所での運河工事 (画(飯野珪次郎『砂に描く』より)過酷な収容所生活で頭に浮かんだのは、日本人の少女の顔だった。熱が出てもうろうとしたときは、壁にかけた帽子が三つ編みのおさげ髪をした眞佐子さんの顔に見えた。「必ず生きて日本に帰って彼女に会うんだ」と自分を励まし、重労働と飢えの日々を耐えた。2年間の抑留で、体重は60キロから41キロまでに減った。
「ひもじかった・・体重は60キロから41キロへ」(画(飯野珪次郎『砂に描く』より)■日本に戻れたが外国人になる
約60万人の兵士・民間人がソ連に抑留され、およそ6万人が亡くなったとされる中、呉さんは47年7月に京都・舞鶴に復員した。
復員証明書には、呉正男(大山正男)と二つの名前が書かれている日本に戻ってもなお、呉さんは国家の思惑と時代の波に翻弄される。日本に戻ったことを台湾の親に知らせると、「帰ってくるな。日本で復学せよ」と伝えられた。
台湾は蒋介石の国民政府の統治下に入った。台湾人は、新たに中国から渡ってきた「外省人」に対して、「本省人」と呼ばれるようになる。
ところが主要な公職を独占する外省人は腐敗し、経済は混乱する。失業者も増え、外省人に対する本省人の反発は強まっていった。そうした中、密輸タバコを販売していた女性への暴力的な取り締まりに端を発して起きたのが47年の「2.28事件」だった。怒った台湾人民衆が暴動を起こしたが、国民政府軍が鎮圧。多くの台湾人が逮捕、虐殺された。暴動後も台湾では1949〜87年までの38年間、戒厳令が続いた。
台湾に帰ることをやめた呉さんは、法政大学に進学。池袋の闇市やパチンコ屋、パン工場で働きながら必死に生き抜いた。52年4月に発効したサンフランシスコ講和条約で日本は台湾を放棄。日本にいる台湾出身者は、日本国籍を喪失した。この時のことを、呉さんはこう表現する。
「(日本に)戻ってきて外国人になった」
その後、同い年の日本人女性、西村久子さんと結婚。横浜中華街にある信用組合「横浜華銀」に就職し、生活はやっと軌道に乗っていった。
■都合のいいときは日本人、悪いときは外国人扱い
日本人の戦傷病者・戦没者の遺族には、52年の「戦傷病者・戦没者遺族等援護法」により年金や一時金が支給されるようになった。これに対し台湾在住の元日本軍人・軍属戦傷者と家族13人が77年、「日本のために身を捧げて働いたのだから、日本人と同じ扱いをしてほしい」と提訴する。呉さんは、「台湾人元日本兵士の補償問題を考える会」の会員として裁判を支援。だが、92年に最高裁で敗訴が確定した。日本人に限定した国籍条項には合理的理由があり、憲法14条の法の下の平等に違反するものではないとの判決だった。
81年には、シベリア抑留者が抑留中の賃金の支払いを国に求める国家賠償請求訴訟を起した。日本政府は、豪州、ニュージーランド、東南アジアなどから帰還した日本人捕虜に対して、米、英、豪政府に代わって抑留中の賃金を支払っていた。しかし、これも最高裁は「シベリア抑留者は、日本とソ連の相互の請求権放棄により、国に対して補償を請求することはできない」と退ける。
こうした一連の動きをへて2010年に議員立法で成立したのが「シベリア抑留者特措法」だ。政府からの弔慰金は平均28万円だったが、「無給の労働は奴隷と同じ。奴隷のまま死ぬわけにはいかない」と訴えていた抑留者の名誉は回復された。
法制定に向け長年運動を展開してきた「全国抑留者補償協議会」は台湾、韓国、朝鮮人の抑留者に対しても支給するよう強く要求していた。だが、支給対象は「日本国籍である者」に限られた。法案作成の過程で総務省が強力に主張したためだという。
シベリア抑留時に日本人だった呉さんに、弔慰金は支払われなかった。一方、米、英、フランス、イタリア、ドイツは第二次大戦時に旧植民地出身など外国籍で参戦した軍人に対して、本国籍と同様の補償を行っている。この違いに呉さんは「僕が愛する日本の評判を落とした。残念なことです」と言う。
シベリア抑留を体験し、「戦争被害者に差別なき救済を」とデモ行進していた西倉勝さんは、呉さんが次のように話したのを覚えている。
「都合のいいときは日本人、悪いときは外国人扱いする」
2025年4月「差別なき救済を!!」と銀座で訴える西倉勝さん(右端100歳)■台湾出身日本兵の「生きた証」を
呉さんが46年間勤めた横浜華銀の理事長を退いたのは1999年、72歳の時だった。それからまもなく、呉さんは日本国籍を取ろうと法務局に足を運んだ。抑留経験のある軍歴や、日本人の妻がいることも説明した。「それは大変でしたね。問題なく許可されますよ」といった答えを想定していた。ところが、職員から「申請しても出ないことがありますよ」と3回も言われ、無性に腹がたった。
日本のために、日本人として戦い、シベリア抑留にも耐えた。そんな自分の過去を否定されたように感じた。妻にも「台湾籍で何が問題なの」と言われ、申請はやめた。
同い年の妻久子さんと何度も命の危機にあったが、自分は命永らえて、幸福だ。それでも「日本のために戦争に行った台湾人が21万人いて、3万人もの方が亡くなったことを、どれだけの日本の人が知っているのだろうか。その方たちのことが忘れられてしまう」というおそれを30年以上持ち続けてきた。「3万人の戦没者の生きた証を残したい」。そんな使命感にも似た思いから、各地の寺社にも働きかけてきた。
2024年暮れ、そんな呉さんの思いに共鳴し、慰霊碑を建てる土地を提供してくれる寺がようやく現れた。横浜市磯子区にある真照寺。住職の水谷栄寛さんは、そのいきさつを、こう話す。
「令和7年は、先代、静春和尚の23回忌にあたります。先代は海軍予科練におりました。この度、呉正男氏と歴史研究家の方にご縁があり、境内に、台湾出身日本兵の慰霊碑を建立することになりました。父もきっと喜んでくれると思っております」
台湾出身戦没者慰霊碑の開眼・除幕式 (横浜市磯子区の真照寺)■「祖国台湾 母国日本」という言葉に込めた想い
7月25日、真照寺で慰霊碑の開眼・除幕式が行われた。慰霊碑のとなりには、呉さんの思いを刻んだもうひとつの碑が建てられた。水谷さんが、呉さんの口癖を碑文にしたのである。
「祖国台湾 母国日本」
呉さんは「母国日本は私個人の気持ち。戦没者の中には日本に来たこともない人もいるので、そう思っていないかもしれない」という。だが、その顔は晴れやかだ。
「こんないい場所に慰霊碑が建てられたので、お参りに来る人も増えて、亡くなられた方も喜んでおられるでしょう。」
呉さんはいまでもこう思っている。「戦争当時日本国籍で、日本人として戦ったのに、軍人恩給もなく、シベリア抑留の補償もないのはおかしい」。だが、生きている台湾出身元日本兵がいなくなるのも時間の問題だ。ならば日本人に、日本の戦争で21万人の台湾人が日本人として戦い、3万人も亡くなったという事実を忘れないでほしい。そして、拝んでほしい。それが、呉さんの願いである。
呉さんの思いに、日本政府は応える答えることができていない。呉さんの言葉は、私たちに社会の公平なあり方を問いかけているように思える。
呉さんの思い刻んだもうひとつの碑クレジット
撮影:前田大和、小西晴子
監督・編集:小西晴子
プロデューサー : 前夷里枝
制作: ドキュメンタリーアイズ2025
記事監修:国分高史 飯田和樹
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「#戦争の記憶」は、Yahoo!ニュースがユーザーと考えたい社会課題「ホットイシュー」の一つです。戦後80年が迫る中、戦争当時の記録や戦争体験者の生の声に直接触れる機会は少なくなっています。しかしウクライナ侵攻など、現代社会においても戦争は過去のものとは言えません。こうした悲劇を繰り返さないために、戦争について知るきっかけを提供すべくコンテンツを発信していきます。
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