暗黒の深海で生物はなぜ光るのか? 深海研究者が語る「観察し、不思議に思う」ことの大切さ(Bookレビュー)

チョウチンアンコウ、ウミホタル、光るクラゲやタコ……地球最後のフロンティアと呼ばれる深海には、想像をはるかに超えた、光る生き物たちの世界が広がっている。生きたダイオウイカを世界初撮影した海洋生物学のパイオニア、エディス・ウィダー博士。その約半世紀にわたる研究成果をもとにした科学ノンフィクション『深海の闇の奥へ』に、JAMSTECの深海研究者・川口慎介さんが寄せた書評を紹介する。  ***  ボクたちの暮らす世界では、夕方になると暗闇が東の空から伸びてくる。しかし海の中では、空の陽が沈むにつれ暗闇は海表面に向かって上がってくるのだ。海中に横たわるこの「闇の縁(ふち)」(Edge of Darkness)は、透明度が高い外洋域の日中では水深500メートルよりも深くなり、雲が月を隠す夜には海面のすぐ下まで、ダイナミックに移動する。  海の中を照らす光源は2種類しかない、と著者のエディス・ウィダー博士は言う。空に輝く太陽と、海水に生息する生物の発光だ。太陽光の届かない「闇の縁の下」では、すべての光が生物の発光によってもたらされる。  なぜ発光生物は暗闇の深海で光を放っているのだろう。本書の主題はここにある。ただし、真の主役は発光でも生物でもない。「なぜ」こそが主役だ。自然の様子に「なぜ」を感じ、観察する方法に工夫を凝らし、観察した結果を読み解くことで、さらなる「なぜ」に直面する。このサイクルは、海洋生物学のみならず、あらゆる自然科学研究の根幹をなしている。  ウィダー博士が駆け出しの研究者だった約半世紀前、海中での発光現象調査はまだ黎明期。船から計器を吊り下げて発光現象を観測するうちに、どうやら深海での生物発光の頻度は海面が荒れていると高くなることがわかってきた。しかしこれが、海の荒れ具合に対して発光生物が応答している生態系の現象なのか、それとも波に揺らされる船体の動揺が吊り下げた計器に伝わり周囲の生物を刺激して発光させてしまった人為的なものなのか、区別がつかない。こうした観察行動が自然に介入してしまう事態は、自然科学研究に付きもので、いつも立ちはだかる課題だ。ウィダー博士は、海面の影響を受けない観察方法として、潜水艇による潜航を計画して、この課題を突破してみせる。こんな具合に、物資の限られる不自由な海に繰り出すウィダー博士ら研究者たちの奮闘がつぶさに描かれ、海洋生物たちがくりひろげる光を巡る「暗闘」の実態が、少しずつ明らかになっていく。  発光能力を獲得する生物の進化は、地球生命史において、何十回と独立して起こったとされる。現代の海に生息する生物の7割以上が発光するという推定まである。膨大なエネルギーを消費する発光は、単純に考えれば、生存において不利な行動だ。それにもかかわらず、多彩かつ大量の発光生物が現に生息しているのだから、発光は、海洋生物たちの生存に深く関わる行動なのだと考えられる。  だが「深海生物が発光するのはなぜか」という問いは、複層的だ。たとえば、あなたが文章を読めているのは「なぜ」なのか、を考えてみよう。網膜に入った光を神経信号に変換して脳で処理するから。幼少期から国語教育を通じて文字を学んだから。文章から情報を獲得できるから。人類が文字文化を発明したから。この他にも多様な回答がありえるだろう。同様に、深海生物が発光する理由も、端的に説明できるわけではない。自然界の「なぜ」を紹介する類書では、安易な擬人化や冒険譚に逃げ込むものも少なくない。本書が類書と一線を画しているのは、基礎的かつ正確な科学的記述が貫徹されている点にあり、動物行動学(ethology)あるいは視覚生態学(visual ecology)の入門書としても読むことができる。 「観察し、不思議に思うこと」(watching and wondering)。本書でも引用されるこのフレーズは、1973年に動物行動学者ながらにノーベル生理学・医学賞を受けたニコ・ティンバーゲンが受賞講演において述べたものだ。生物学には、彼の名を冠した「ティンバーゲンの4つのなぜ」という、複層的な「なぜ」を整理するための考え方がある。ウィダー博士が「観察し、不思議に思う」と同時に、「4つのなぜ」にもとづいて不思議を解釈していることが、複雑な海洋生物発光の生態系を、これほど流麗に解説するのに一役買っているのだろう。「不思議に思う感性」(sense of wonder)は、海洋生物学者でもあったレイチェル・カーソンの著作により広く知られている。カーソンには「The Edge of the Sea」という著書があり、本書の原題である「Below The Edge of Darkness」は本歌取りのようである。  日常生活と隔絶した海中世界、暗闇での生物発光、そして専門家の集まる研究現場での格闘の様子が、目に浮かぶように読み進められるのは、橘明美さんによる翻訳のおかげだ。本文中で繰り出されるジョークやフィクションからの引用には元ネタがわからないものもあるが、それは著者のアメリカンな素養に起因するのであって、翻訳には責任がない。そして翻訳のすばらしさにとどまらず、「訳者あとがき」が最高の書評となっているのだから、もう言うことがない。橘さんには、ぜひ拙著『深海問答』の英訳をお願いしたいものだ。  人類が引き起こした地球温暖化によって、深海の水温も上昇をはじめている。ウィダー博士は「政府が生態系の研究に大金を投じるのはいつも生態系が崩壊したあとだ」と嘆き、そして宣言する。 「わたしは宇宙探査も含めて、あらゆる調査に賛同する(……)だが限られた予算のなかで厳しい選択を強いられるのであれば、わたしは宇宙ではなく、地球の海洋に目を向ける」 「手遅れになる前に、地球という星の探査に注力するべきだ。この星で生きられるのは海があるからだとわかっていながら、わたしたちは海のことをまだほとんど知らない」 [レビュアー]川口慎介(深海研究者) 1982年生まれ。国立研究開発法人海洋研究開発機構主任研究員・日本学術会議連携会員。『深海問答――海に潜って考えた地球のこと』 協力:紀伊國屋書店 紀伊國屋書店 scripta Book Bang編集部 新潮社

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