認知症治療薬「レカネマブ」に300万円の価値はない…訪問診療の医師が教える「認知症寝たきり患者の本当の姿」(プレジデントオンライン)
17:17 配信
認知症の新しい治療薬「レカネマブ」と「ドナネマブ」が世界的に注目されている。効果はあるのか。武蔵国分寺公園クリニック名誉院長の名郷直樹さんは「治療薬は症状を改善するわけではなく、その分、患者は物忘れに苦しむ期間が延びるだけ。そこで私は『ピンピンコロリ』ではなく、『安楽寝たきり』を提唱したい」という――。(聞き手・構成=亀井洋志)■本当に「画期的な薬」なのか アルツハイマー型認知症の新しい治療薬が臨床の場で使われるようになりました。2023年9月に承認された「レカネマブ」と、続いて24年11月に保険適用された「ドナネマブ」です。両薬剤とも、認知症の原因物質に直接作用する初めての抗体薬として注目されました。具体的には、脳内にたまったアミロイドβという蛋白(たんぱく)質を除去して、病気の進行を遅らせる効果が期待されています。 テレビ番組に出演した認知症の専門医が「画期的な薬だ」と評価し、メディアの報道も概(おおむ)ね好意的です。しかし、私はこうした論調に強い疑念を抱かざるを得ません。結論から申しますと、レカネマブもドナネマブも患者さんに有用とは言えず、むしろ副作用の害のほうが大きい「危険な薬」と呼ぶべきだと思っています。 私はレカネマブを含む抗アミロイドβ抗体薬について、臨床試験の結果など複数のデータを解析した論文(メタアナリシス)を精査してみました。代表的な認知症テストに、MMSE(ミニメンタルステート検査)という検査方法があります。30点満点で、23点以下で認知症の疑いとなります。■「脳浮腫と脳出血が高頻度で起きる」研究結果も レカネマブなど抗体薬を服用した群と、プラセボ(偽薬)群に分けたランダム化比較試験において、1〜3点の差がつけば、一応は患者さんを相手にした臨床の場で有用との目安があります。ところが、この論文ではわずか0.32点の差しかありませんでした。こんなに小さな差では、患者さんに薬が効いたと実感することは不可能です。 実際、医者が診察室で21点の人と23点の人を診ても、ちがいなど全然わかりません。10点と20点の差であれば、問診をしたり、スマホやリモコンを操作させたりして、ようやく判断することができます。 認知症の専門家は臨床の専門家ではなく、基礎研究ばかりに没頭していることが最大の問題です。ですから、実験室の中での結果だけを思い浮かべて、「画期的な薬」だと礼賛しているのです。
臨床的な効果は示されない一方で、副作用のほうははっきりしていて、臨床試験で脳浮腫と脳出血が高い頻度で起きています。先の論文でも、画像上の検討で、9人に投与すると1人の脳浮腫、13人に投与すると1人の脳出血が発見され、症状を引き起こす脳浮腫では86人に投与すると1人に起こると報告されています。価格面を見ても、レカネマブとドナネマブの患者さんの負担額は年間約300万円もかかります。一般的な感覚で言えば、公費を投入して使うべき薬ではないと言わざるを得ません。
■認知症の進行を遅らせるだけで、改善はしない 私がここで強調しておきたいのは、現在ある認知症の治療薬は、効果があったとしても進行を先送りするだけでしかないということです。現時点では認知症を予防したり、改善したりする薬は開発されていません。 例えば、高血圧の治療では合併症である脳卒中や心不全が起きるのを先送りできれば、その分、元気な期間を長くする効果があります。しかしながら、認知症の先送りは徐々に物忘れが進行する苦しい時間を長引かせるだけです。患者さんにとっては多大なストレスが増えるだけですから、本当に理不尽な治療であると私は考えています。 本人は「ああ、また忘れるようになってきた」と苦しみ、家族など周囲の人々も「私のこともだんだんわからなくなってきた」とつらい思いをする。認知症が進行していく現在の苦しみに対して、薬では解決できません。そこで何が患者さんや家族の希望につながるかというと、忘れても大丈夫、認知症のままでも楽しく生きられるという方向性を目指していくしかありません。「ぼけをことほぐ」社会を、本人と家族、医療者が見つけ出していくことが何より肝要です。■避けられない老いを避けて何になるのか 認知症治療の現在地を検証することは、「人間にとって老いとは何か」を見つめ直すことにほかなりません。人生において老化とは本来、苦しいものです。特に認知機能の低下や、活動力の低下はつらく、長生きするということは苦しみを伴うことなのです。やはり、誰しも病気は少しでも先送りしたい、介護が必要になる時期は遠ざけたいというのが本音でしょう。しかし、どんなに先送りしてもやがて来る下り坂、死とどう向き合うか。その現実を直視することが大切です。 いま、アンチエイジングが声高に叫ばれていますが、アンチエイジングもあくまで加齢や老化による変化の速度を遅くするに過ぎず、これもまた「老化の先送り」でしかありません。避けられない老いをどこまでも避けようとし、最終的な死までは面倒を見ないという無責任な思想が底流にあると思います。 その背景には、認知症が進行したら大変だ、ぼけたり、寝たきりになったりしたら死んだのも同然だ、という考え方があるのではないでしょうか。人は、日ごろの健康管理や病気の予防に失敗したから介護が必要になるのではない。病気の予防、先送りに成功し、長生きするようになったため、介護が必要になったのです。
人工呼吸、胃瘻(いろう)や経管栄養などの方法で延命を可能にした医学の進歩は、老いの苦しみを長引かせる面もあります。ですから、ほとんどのケースで元気なまま亡くなる「ピンピンコロリ」など望むべくもなく、衰える中で亡くなる「ヨボヨボコロリ」のほうがいっそうリアルです。流行りの「健康寿命」がどんなに延びたとしても、ほとんどの人は遅かれ早かれ寝たきりになって死ぬのです。
■「安楽死」が生まれた本当の背景 ピンピンコロリが理想的な死であるかのように語られる風潮がありますが、本当は「寝たきり」よりはマシ、「寝たきり」に対する差別意識に過ぎないのではないでしょうか。 オランダやベルギーでは認知症の人に対する安楽死を合法化していますが、本人も周囲もそのような決断を迫られる状況じたい苦しいのではないか、としか思えない。安楽死もそれを望むというより、選択肢がなくなって追い込まれた結果ではないか。本人や家族、周囲の介護者が納得できるような幸せな寝たきりがあるのであれば、誰も安楽死など考えないと思います。 私は、安楽死が広く受け容れられる社会よりは、寝たきりに寛容な社会のほうが住みやすい社会にちがいないと考えています。そこで、私は安楽死の対語として「安楽寝たきり」という言葉を提唱しています。誰もが心置きなく「安楽寝たきり」になるためには、寝たきりになった時に周囲への迷惑や影響をお互いさまと考え、特定の人に負担が集中しないようにすることが必須になります。 そうはいっても、支援する家族の側からすれば大きな負担になります。介護殺人のような深刻な事件は「寝たきり」の患者さんを抱える家族にとっては身近な問題です。■「母に早く死んでほしいと思うことがありました」 以前、認知症で毎晩せん妄と被害妄想を起こしていた母親を自宅で看取った娘さんが、外来でこう話してくれたことがありました。 「介護をしながら母に早く死んでほしいと思うことがありました。でも、スタッフの方に電話した時に『思うだけならいくら思っても構いません。ただし、本当に手をかけそうになったら、手をかけずに電話をかけて下さい』と言われ、本当に救われました」と。 そんな状況になれば、誰でも実の親ですら死んでほしいと思うものです。ほとんどの人は、そんなことを考えても、口に出してもいけないと思い込んでいます。死を避けなければいけないという思いが強過ぎて、無理を重ねて疲弊する。本当に一生懸命に介護する人の限界の中で、介護殺人は起きるのです。ですが、親に死んでほしいなんて思うことはよくあること。そんな本音をポロリと口に出せれば、それが解決の糸口につながります。「安楽寝たきり」を実現するためには、周囲も「安楽」でなくてはならないのです。
核家族化が進んだ現代では、家族の介護力は著しく低下しています。結婚する人も減って、一人の子どもが、高齢で認知症の父母を介護しているという現実があります。訪問診療の現場では、自宅で最期を迎えるのがよいという大きな流れがありますが、これは介護費用を減らしたい国の方針に乗せられているだけかもしれません。家族の犠牲を避けるためには、在宅こそが最善という呪縛からも解き放たれる必要があります。
■認知症は“軽度”がいちばん大変 施設というと、まるで監獄に入れるかのように思い込んでいる人が少なくありません。けれども、「施設はダメ」というのは偏見に過ぎません。家族全体が安楽でいられるように、介護の専門職の支援を求めることも選択肢の一つです。いまの特別養護老人ホームのスタッフは技術的に熟練していますから、着替えやトイレ、入浴にしても、ベッドから車椅子への移動にしても、本当に上手にやってくれます。仕事ですから、家族のように怒らなければならない理由もなく、患者さん本人にとっても楽だし、快適なはずです。 認知症は軽度の人のほうが、徘徊して行方がわからなくなったり、夜間にせん妄で動き回ったりするので圧倒的に大変です。 しかし、認知症が行き着くところまで進行してしまえば、あまり動けなくなるので周囲の介護負担が減る傾向にあります。患者さん自身も意外と安定した状態になって、閉じられた独自の世界を生きるようになります。 訪問診療でよく経験するのは、認知症になったおじいさんやおばあさんが、すでに配偶者が亡くなっていることがわからなくなり、いつまでたっても一緒に暮らしているように生活していることです。 「きょう、じいさんが見えんけどどこに行ったかな」という話を訪問に行くたびに聞かされることがあります。その時に家族が「とっくに死んだでしょう!」なんて言うと、患者さんは混乱してしまう。「コンビニでも行ったんじゃないかな」と話を合わせてあげると、延々とハッピーな会話が続くんです。■大切なのは周囲も「安楽」で過ごすこと ぼけるという状態にもメリットがあって、死に対する恐怖が消える、配偶者の死を悲しまずに済む、ということが少なくないようです。また、多くの認知症患者は身体的な苦痛を感じにくいという特徴があります。心不全で酸素飽和度がかなり下がっていてもまったく苦しさを訴えずにニコニコしている人もいますし、末期のがんでも認知症の人はあまり痛がりません。寝たきりや死が近づいている状況では、認知症は一種のギフトのように感じられるほどです。 認知症という通常は希望とは考えにくい状態の中にも、希望はあります。朝起きてベッドから起き上がるための介助、洗顔、食事、排泄の支援など、いま必要なことだけにフォーカスしていくことが大切です。もちろん、家族だけでは大変ですから、訪問看護師やヘルパーにバックアップしてもらえばいい。患者さんはだんだんと衰えていく中で、いまが快適だったら、この快適さの中で明日死んでもいいと思えるかもしれません。 「安楽寝たきり」の行きつく先である「安楽な死」の条件は、死にゆく人も、家族や医療者、介護者など周囲の人たちも共に「安楽」かどうかにかかっているのです。 いまは健康長寿ばかり喧伝するから、みんな苦しい思いをするのです。認知症や寝たきりの人を否定しない、差別しないことこそが本来の社会のありようだと考えています。----------名郷 直樹(なごう・なおき)武蔵国分寺公園クリニック名誉院長1961年、愛知県生まれ。自治医科大学卒業。愛知県作手村国民健康保険診療所に12年間勤務。へき地医療に取り組んだ後、研修医教育を中心に活動し、2011年に東京都国分寺市で武蔵国分寺公園クリニックを開業。12年に院長を退き、現在は名誉院長。『ステップアップEBM実践ワークブック』(南江堂)、『「健康第一」は間違っている』(筑摩選書)、『いずれくる死にそなえない』(生活の医療社)など著書多数。--------------------亀井 洋志(かめい・ひろし)ジャーナリスト1967年愛知県生まれ。『週刊文春』『週刊朝日』などの専属記者を経て、現在はフリーランス・ジャーナリスト。著書に『どうして私が「犯人」なのか』(宝島社新書)、『司法崩壊』(WAVE出版)など。
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プレジデントオンライン
最終更新:6/12(木) 17:17