「いまこそヒトラーの関税政策が起こした大惨事に学ぶべき」米誌に掲載された歴史学者の指摘(クーリエ・ジャポン)
アドルフ・ヒトラーがドイツの首相に就任したとき、彼は即座に農業分野の輸入品に高関税を課した。1933年2月1日、ヒトラー政権誕生からわずか48時間後、アルフレート・ヒューゲンベルク経済相は「輸入農産物の関税引き上げを敢行すべき」と公言した。 しかし、コンスタンティン・ノイラート外相は、オーストリアからの輸入木材が高騰すること、そしてソ連との間に結んだ貿易協定が破綻すると懸念を示した。 このとき、ヒトラーが関心を示したのは一つだけだった。彼は政権維持の鍵となる3月5日の帝国議会選挙を前に「国民に不満を抱かせないことだけが優先事項である」と側近に語っている。 ヒトラーは、絶対多数を獲得するには1800万〜1900万の票が必要だと計算していた。「これだけ多くの有権者の支持を得る経済政策はほかに存在しない」とも党指導部に語っている。 ヒトラーは経済的な問題を犯罪的なほどに軽視していた。所得税すら滞納していた彼の経済学についての理解は原始的なものだった。「インフレになるのは、インフレを望む場合だけだ」と発言したことさえある。 「インフレとは規律の欠如である。私は物価が安定するよう見守る。そのためにSA(ナチス突撃隊)がいる」 そしてヒトラーは、ドイツの財政難のほとんどはユダヤ人に責任があると述べたのだった。
ヒトラーは首相になる前から、政府のチーフ・エコノミストとして長く活躍していたゴットフリート・フェーダーに、経済政策の策定を依頼していた。 1932年5月、フェーダーは、ヒトラーが突然政権を握った場合にすぐに実行に移せるよう、最初のナチス経済計画となるものの概要を示した。フェーダーがヒトラー経済でもっとも重視したのは関税であった。 フェーダーは、ドイツ経済をドイツ人の手に取り戻す鍵は「輸入制限」にあると考えた。「国家社会主義は、ドイツの労働がソ連の奴隷、中国人や黒人によって供給されることを拒否する」と彼は述べている。 「ドイツ人は外国との競争から保護されなければならない」 ノイラートはこの戦略が貿易戦争を引き起こし、輸入卵の価格を600%上昇させることを懸念していたが、フェーダーの関税政策は、グローバル社会の束縛からドイツ国民を「解放」するというヒトラーの大きなビジョンに合致していたのだ。 これに先立ち、ドイツは1929年の大恐慌によって、世界の国々とともに奈落の底に突き落とされていた。市場は崩壊し、工場は操業停止し、失業率は急上昇。1930年代初頭には、ドイツ人労働者の3人に1人が失業していた。 それでも、ヒトラーが首相に任命された1933年1月には、経済は回復基調にあった。首相としての彼の主な経済的課題は、事態を混乱させないことだった。事実、その戦略は初期においては成功した。ドイツ株式市場は、ヒトラーが政権に就くというニュースを受けて上昇したのだ。
Timothy W. Ryback