こんなにホンワカした子たちが競争社会で生き残れるのか…2020年「通知表ナシ」に挑戦した元公立小校長の回答 テストの点数ではなくて、どこを間違えたかを見る子たちになった
神奈川県にある茅ヶ崎市立香川小学校は、2020年に通知表を廃止した。小学校のうちから競争社会の現実を伝えなくていいのか。通知表を廃止した当時の校長である國分一哉さんは「明らかに、テストの点数ではなくて、どこを間違えたかを見る子たちになった。必ずしも競争に勝つ力だけが重要なわけではない」という――。
(前編から続く)
“通知表なしネイティブ”の子どもたちに見られた変化
通知表をなくしたことで香川小の子どもたちにどのような変化が起きたかを國分さんに尋ねてみると、すかさずこんな答えが返ってきた。
「取材で必ず聞かれるのが、『どんな変化があったか数字で教えてくれ』ということなんです」
痛いところを突かれた。成果を分かりやすく数字で教えてくれという質問こそ、総括的評価の発想に違いない。
「学年ごとの特性もあるので変化を検証するのは時間のかかることだし、目に見える変化がなかったとすれば、それはそれで、通知表がなくてもいいことを逆に証明していることになると思います。ただ新入生の時から通知表なしで育って3年生になった子どもたちには、大きな変化が見られたと言っていいと思います」
小学校生活の途中から通知表がなくなったのではなく、入学したときからなかった、いわば“通知表なしネイティブ”の子どもたちである。
「明らかに、テストの点数ではなくて、どこを間違えたかを見る子たちになりました」
撮影=強田美央
元茅ヶ崎市立香川小学校校長の國分一哉さん
子どもは正解を求められていると思うと自由に発言できない
そして、もうひとつ。
「教室の中に、できた子ができなかった子に教えるムードが自然にできて、しかも、序列感は生まれなかった。これはとても大きな変化でした」
教師が唯一の正解を答えさせようとするのではなく、多様な答えを受け入れ、答えを出すまでのプロセスを重視するようになったことで、授業中の挙手や発言が格段に多くなったという。
「子どもって、正解を求められていると思うと自由に発言できないんです。教師が『他に答えは?』なんて言うと、『ああ、最初の答えは間違いだったんだ』と受け取って、正しい答えが分かるまで手を挙げなくなってしまう。でも、正解することをゴールにしない授業をやると、いろいろな意見を言うようになる。もちろん授業はとっ散らかりますよ。でも、それをさばいていくのが教師の腕じゃん、ってことですよ」
國分さんは、「この学年の子どもたちは、とてもホンワカしていていい学年だった」と表現する。
しかし、保護者からの批判の矛先も、まさにこの「ホンワカ」に向けられていたのである。
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國分さんがこうした考え方を持つに至ったのには、それなりの背景があった。
一般教員だった時代に4年間、学校現場を離れて湘南教職員組合(鎌倉市、藤沢市、茅ヶ崎市、寒川町)の書記長、委員長を歴任したのだ。
「湘南地方は、昔から校長のトップダウンが嫌いな教員が多くて、職員会議で管理職とバンバンやり合う伝統がありました。僕自身、上から言われた通りにやるのが嫌な人間だったし、だからこそ、自分が校長になったときにはトップダウンでやりたくないと思っていたわけですが、組合専従時代の経験でとても大きかったのが、他の業界の労組の方たちと話をする機会を持てたことなんです」
一般企業の組合員と話してみると、彼らは決して、なんとしてでも競争に勝とうとするような人材や、上の言うことに素直に従う人材を理想としているわけではなかった。むしろ、話し合いによって物事を決めていく能力や、周囲と協力しながら物事を推進していく能力を持った人材を求める声が多かったという。
「それを聞いて、自分が向かっている方向は大きくは間違ってはいないという確信を持つことができたんです」
撮影=強田美央
「全員が競争をして生きていくわけではない」とも語る
大人たちは競争社会をどうしていきたいのか
むろん、企業が求める人材を提供することが教育の目的ではないはずだが、少なくとも先の保護者の手紙に対して、「これからは、必ずしも競争に勝つ子が生き残る時代ではない」と反論することはできるかもしれない。
『通知表をやめた。茅ヶ崎市立香川小の1000日』の中に、國分さんと共に通知表の廃止を推進した山田剛輔教諭のこんな発言が収録されている。
通知表の有無については、賛否両論があることです。反対意見を真摯しんしに受け止めながらも、大人(社会)の一般的な価値観をぶつけ合っていても仕方がないと思っています。それぞれの考えがあってよいと思っているからです。それをすぐに変えようとは思っていません。今を楽しく学んで生きる子どもたちが、未来を変えていくと考えると、今を変えていくことの重要性がわかります。(156ページ)
競争社会の現実を子どもたちに突きつけるより、「競争社会をどうしていきたいか」を大人は真剣に考えるべきではないだろうか。
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香川小は、通知表を廃止して3年目に当たる2022年の11月、廃止に関する保護者アンケートを実施している。結果は、「どちらかといえば賛同しない」+「賛同しない」が51%、「どちらかといえば賛同する」+「賛同する」が38%であった。
賛同しない保護者からは、「(中学に行けば評定を受けるのに)高校受験に影響してしまう」「子どもたちはいずれ競争社会に出ていくのに、競争に負けない力が身につかない」「子どもの得意不得意がわからない」「学習意欲が下がる」といった意見が寄せられた。
國分さんの元に、ある保護者からこんな手紙が届いた。
私が勤める会社では、コンペでプレゼンテーションをやって、他社に負けてしまえば、それでお終い。それが競争社会の現実です。
こうした現実を子どもに隠して、社会には競争も序列もないかのように教えるのは欺瞞ぎまんであり、競争社会を生き抜く力が身につかないということだろう。
「一緒に仕事をするメンバー」は仲間ではないか
コクセンは、どのように受け取ったのか?
「中学に行けば競争が始まるのに……という意見に対しては、『小学校は中学校の準備校ではない』という考えをしっかり持とうと言ってくれる職員がいました。小学校は小学校独自の教育目標を持っていて、それを6年間で完結させる流れがある。だから、中学の準備を気にするのはやめようよということです」
撮影=強田美央
保護者からはさまざまな意見が届いた
競争社会という現実を前に、「ホンワカ」している場合ではないという指摘には?
「たしかに、現実の社会にはそういう面があるかもしれません。でも、もしも一緒にプレゼンテーションをやるメンバーがいたとしたら、彼らも競争相手なのでしょうか。むしろ、会社や社会というより大きなものに一緒に立ち向かっていく仲間ですよね。そう考えると、必ずしも競争に勝つ力だけが重要なわけではないんです。これから10年、20年後の世界を考えたら、むしろ隣にいる子を競争相手だと考えて勝とうとする子より、隣の子と協力しながら一緒にやっていくことに長けた子の方が生き残っていくのかもしれない。少なくとも僕は、協力、協働といったことを大切にする子どもたちに育ってほしいと願っていました」
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さて、通知表廃止の流れをたどってみて感じるのは、「國分さんだからできたのではないか」ということである。実際、取材の過程でそうした声をいくつか聞いた。
大学時代、アメリカンフットボールの選手として鳴らした國分さんは、上背があり、おしゃべりが好きで、底抜けに明るい。こういうキャラクターだからこそ、通知表廃止という大実験をやり遂げることができたのではないか。
「実は僕ね、30年以上前に『男女混合名簿にしたい』って、意地になって言い続けていたんですよ。なんで男女別にしなけりゃいけないんだと。朝礼で背の順に並ぶのは前が見えないからだという理由があるけれど、男女混合で一列に並んでもなんの不都合もありませんよね。ところが子どもたちに男女混合で一列に並ぼうよと言うと、他の先生から『ちゃんと並びなさい』って注意されてしまうわけですよ」
前例踏襲・例年通りが嫌いな國分さんは、一般教員の時代「職員会議の暴れん坊」の異名を取ったそうだが、なぜ前例踏襲、・例年通りが嫌いかといえば、それは「思考停止」と同じことだからだという。
撮影=強田美央
「若い頃からとんがっていたのかもしれない」と振り返る
「職員を応援し、責任をとること」こそ管理職の仕事
「職員がこういう新しいことをやりたいと提案しても、管理職がこうなったらどうするの? だれが責任取るの? と突っ込めば、じゃあやめておこうとなってしまう。あるいは、あるクラスの担任が独自のことをやり出すと、なんでうちの子のクラスはやらないんだと突っ込みを入れる保護者が必ず現れます。結果的に、どのクラスも同じことを横並びでやらざるを得なくなってしまう。学校どうしの関係も同じです」
それが、公立学校の魅力を著しく損なわせ、教員志望者の減少に拍車をかける。
「特に就職氷河期世代の教員は、他と違うことをやると叩かれるという経験をしてきた人が多いから、何もしないで平穏に過ごした方がいいと考えがちだし、校長もおかしなことをやられて後の処理をするより、新しい提案を潰してしまう方が楽だと考えがちなんです」
やはり通知表廃止は、コクセンだからこそできたことではないのか?
「いや、決してそんなことはありません。僕が退職をする時、教頭先生が職員に向けて『國分校長は、裏でたくさん謝っていたんですよ』って言ってくれたんですが、まずは、管理職が職員を信じて、管理職の仕事は職員を応援し、責任をとることなんだという意識を持つことです。そして担任は、子どもたちを信じて、いろいろなことをやらせてあげること。そうすれば、公立学校は変えられるんですよ」
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しかし現実は、そう簡単ではない。
実は香川小では、今年度末から通知表そのものではないものの、通知表に代わる「学力が分かるもの」を三者面談時保護者に手渡すことがすでに決まっている。保護者アンケートでも、通知表の復活を望む意見が多かったというのだ。むろん、さまざまな議論を経ての決定なのだろうが、通知表廃止というトライアルは國分さんが香川小を去ってわずか2年で、大きな変容を迫られることになったわけだ。
振り返ってみれば、いわゆる“名物校長”がドラスティックに公立学校を改革したという話題はいくつかあった。しかし、名物校長の異動や退職によって元に戻ってしまったという結末が多い。改革が継承されない。そして、他校に広がらない。
「湘南地方にはまだ先生の自由を許容してくれる雰囲気が残っていますが、SNSで他者を叩くことで満足感を得るような空気が蔓延している社会をなんとかしないと、先生たちの自由度はますます低くなってしまうでしょうね」
未来を変えるのは子どもたち。そのために、大人たちが今を変える必要がある。