NYの超高層ビルが「16分の1の確率で倒壊」――事実を知った唯一の人物が取った行動は

(CNN) 1977年10月12日、米金融大手シティコープはニューヨーク市に、30年代初頭以降で最も高いビルをオープンした。高さ約280メートルのビルを遠くから望むと、傾斜した独特の屋根がメスのようにミッドタウンの空に切り込んでいた。地上で近くから見ると、一段低くなった広場の上に59階の建物が浮かんでいるようで、通行人に十分なスペースを提供する建築姿勢が表れていた。

シティコープ・センターは今もそこに建っているが、その後「601レキシントン」と改名された。だがある意味では、もはや77年当時と同じ建物ではない。

ビルの所有者や入居者、あるいは建築担当者さえ気付いていなかったが、総工費1億2800万ドル(現在のレートで約190億円)に上ったこの新築ビルは、想定されていたよりはるかに風に弱かった。安定化のための装置が嵐で電源を失えば、一定の強さの突風で倒壊する恐れがあった。ビルを倒す強さの風は、平均16年ごとにニューヨークを襲うとされた。78年7月にエンジニアたちがこれを知った時、ハリケーンのシーズンはすでに始まっていた。

正式にオープンする数日前に撮影されたシティコープ・センター=1977年10月/UPI/Bettmann Archive/Getty Images

危機の全容を追った新刊「The Great Miscalculation(壮大な誤算、の意味):The Race to Save New York City’s Citicorp Tower」は、78年の出来事の裏で繰り広げられた人間模様、特に構造エンジニアだったウィリアム・ルメジャー氏の物語を掘り下げている。同氏は誤算の可能性を指摘され、自身に対して告発の声を上げた。

著者のマイケル・M・グリーンバーグ氏はオンライン会議システム「Zoom(ズーム)」を通し、「この人物は当時世界で7番目に高かったビルに恐るべき構造上の欠陥を見つけるという、あり得ない立場に置かれた」と述べた。

支柱に載った高層ビル

風の影響を受けやすいというビルの特性は、通常とは異なる設計からきていた。その背景には、ビルが建てられたマンハッタンの土地をめぐる特異な事情があった。

シティコープは新たなオフィスを建てるため、ミッドタウンの一区画全体を取得しようとした。ところが、建設予定地の角に1900年代初めからあったセントピーターズ・ルーテル教会だけがこれに抵抗し、計画を阻止した。教会の牧師は、長年の歴史的なつながりを持つミッドタウン・イーストの地区から信者たちが移転を強いられる恐れがあるとして、売却を断固拒否した。

1970年以前に撮影されたセントピーターズ・ルーテル教会/Saint Peter's Church Archive

牧師が応じた合意は、教会がそのネオゴシック様式の建物とともに、土地の上の空間を使用するための「空中権」を売るという内容。シティコープが同じ角に新たな教会を建てることが条件だった。合意の取り決めで、新教会は物理的、建築学的にビルから切り離されることになった。

ビルの建築家ヒュー・スタビンズ氏は、ニューヨークの高層ビルを設計した経験がなかった。この状況に困惑した同氏は、著名な構造エンジニアのルメジャー氏に相談を持ち掛けた。

ルメジャー氏は昼食のペーパーナプキンにスケッチを描きながら、ユニークな解決策を思いついた。四つの角から浮き上がった高層ビル。言い換えれば、支柱の上に載ったタワーだ。

これを実現するために、ビルを支える4本の柱は建物の四隅でなく、四つの面を走らせることにしたが、そこに本質的な不安定さが生じた。グリーンバーグ氏はこれを、椅子の脚が各辺の真ん中から出ていた場合、その上に座った時の安定の悪さに例えている。

ルメジャー氏は対策として、外骨格の機能を果たす補強材(ブレース)構造を考案した。V字型の部材を支柱に交差させることで、実質的に建物を構造上独立した六つの領域に分割する。風圧や重力負荷(建物自体の重さによって生じる荷重)は、三角形の骨組み(トラス)を通し、深さ約15メートルの地盤まで打ち込んだ柱に安全に分散される。

シティコープ・センターの断面図。ウィリアム・ルメジャー氏が考案した革新的な補強材(ブレース)構造を示している/Michael Greenburg

強風による揺れを軽減するため、同氏はさらに「同調質量ダンパー」(TMD)と呼ばれる巨大なおもりを上層階に取り付けるよう提案した。オイルの膜の上に置いた重さ400トンのコンクリートの塊が、建物の動きと反対の方向へスライドし、揺れを相殺する装置だ。

計算が完了し、モデルの風洞実験が実施された。ビルは74年に着工し、3年後に完成。これがルメジャー氏のキャリア発展へ向けた「足がかり」になったと、グリーンバーグ氏は振り返る。

「ルメジャー氏は賞を取って評判を呼び、仕事が爆発的に増えて、すべてが順調に進んだ」という。だがある時突然、1本の電話がかかってきた。

運命の電話

工学専攻の若き学生だったダイアン・ハートリー氏はシティコープ・センターがオープンした時、プリンストン大学で学士課程の最終学年に入るところだった。高層ビルの歴史と影響をテーマにした卒業論文で、このビルを取り上げることにした。

ルメジャー氏の事務所は親切にスケッチや設計図、数値などを提供してくれた。ハートリー氏はビルに出向き、TMDの実物を見学した。ところが、風圧荷重への反応をシミュレーションしてみると、なぜか計算が合わなかった。

ハートリー氏の試算では、ビルに斜めに吹き付ける「斜風」でビルの二つの面に同時に圧力がかかると、荷重が垂直の風より42%大きくなるという数字が出た。提供された数値では説明がつかない。

「自分が何か異常を見つけたとは思いもしなかった」――現在69歳になったハートリー氏は、Zoom上でそう語った。

卒論はすでに提出期限を過ぎていた。ルメジャー氏の事務所に電話したところ、応対したプロジェクトエンジニアに「その計算は間違っている、ビルはもっと大きな強度を備えている」と「説得」されたという。ハートリー氏はその後、不動産業界でキャリアを築いた。「期限に遅れ、卒業を急いでいた私は、その会話を脚注に書いて卒論を提出した」と話す。

ハートリー氏はこのやり取りをすっかり忘れかけていた90年代になって、このビルについてのドキュメンタリーを見た。そこでは、なぞの学生が警告を発したと紹介されていた。電話で話したエンジニアが、同氏の懸念をルメジャー氏に伝えたのかどうかは明らかでない。とはいえ、シティコープ・センターの致命的な欠陥の可能性が発覚するに至った一連の出来事の発端は、同氏にあったというのが一般的な見方だ。

一方、2011年になって登場したもう1人の学生も、1978年にルメジャー氏に連絡を取っていたとみられる。当時ニュージャージー工科大学建築学部の1年生だったリー・デカロリス氏は、担当教授が柱の配置について懸念を示していたことを、電話で直接エンジニアに伝えたと書いている。

ルメジャー氏は2007年に死去した。本人の回想の内容は一貫せず、実際にだれが同氏に誤算を指摘したのかは永遠に不明のままかもしれない。

「このビルは大変なことになっている」

ルメジャー氏はエンジニアであると当時に、ハーバード大学の教員でもあった。シティコープ・センターについて大学で講義する準備を進めていた時、学生(1人か、あるいは2人の)からの指摘を考慮し、風圧の計算をやり直してみた。

「ルメジャー氏は計算中に、『極めて特異な挙動』に気付いた」と、グリーンバーグ氏は説明する。斜風を受けた時、ブレース構造の半分については風圧荷重がゼロになる一方、残りの半分では40%増大することが分かった。これは想定していなかった数字だ。

ルメジャー氏はこの段階でも「パニックに陥ってはいなかった」と、グリーンバーグ氏は言う。それでもビルの強度は十分だと確信していた。ところが鉄骨の組み立てを請け負った業者との話で、補強材が溶接でなく、ボルトで固定されていたことが分かった。時間と費用を節約するため、知らないうちに変更されていたと、ルメジャー氏は主張した。同氏はさらに、ビルが斜風の風圧荷重をどの程度相殺できるかについて、エンジニアチームの誤算があったことにも気づいた。

同氏はこの新情報を基に、V字ブレースの各接合部は14個ずつのボルトで固定するべきだったと結論付けたが、実際には4個ずつしか使われていなかった。

「こいつは大変なことになっている」と思った――同氏は数年後の講演で、そう振り返った。風洞の専門家に追加の実験を依頼したところ、見直しの内容を「さらに悪化」させる結果が出たという。

ビルを支える4本の柱は建物の四隅でなく、四つの面の真ん中を走っていた/Saint Peter's Church Archive/Leslie de la Vega/CNN

特に気になるのは30階のボルト接合部。ここが一番危ないと考えた。グリーンバーグ氏によれば、ビルは「冗長性のない」設計だった。つまりひとつの接合部が故障すれば全体が崩壊するということで、そうなれば周囲のビルにもドミノ現象が広がりかねない。

ルメジャー氏は気象データを基に、シティコープ・センターを倒壊させるほど強い嵐が来る確率は50年に1度と推定した。TMDの電源が失われた場合(ハリケーンではあり得ることだ)、この確率は16年に1度となる。同氏はその後の分析で「21世紀末までに全壊する確率は100%」と書き、「倒壊する時は突然、予告もなく起き、数千人が死亡したということになるだろう」と述べた。

職業倫理

ルメジャー氏は同僚や関係業者、シティコープに自身の誤算を説明した。同氏の提案は明快だった。ボルト接合部に鋼板を溶接するという案だ。しかし最悪のシナリオに備える計画の立案は、決して単純ではなかった。

危険な動きがあればエンジニアに知らせるために、ビルの要所に荷重を測定する機器が取り付けられ、秘密の避難計画が作成された。補修作業の半ばで大西洋にハリケーン「エラ」が発生し、ニューヨーク市へ向かう動きを見せた。ルメジャー氏がほっとしたことに、ハリケーンの進路はそれた。一部の記者から質問は寄せられたが、その年は新聞社のストが起き、補修作業が詮索(せんさく)されることはほとんどなかった。補修は2カ月の間、作業員が人目を避けて夜間に進め、当事者はひっそりと補償や保険の手続きを済ませた。

「601レキシントン」と改名されたシティコープ・センター。写真は2020年に撮影されたもの/John Lamparski/Getty Images

危険の全容は95年、米誌ニューヨーカーに危機の詳細を明かすジョセフ・モーゲンスターン氏(グリーンバーグ氏の著書を裏付ける記録を書いた人物)の記事が掲載されたことで、初めて公になった。ルメジャー氏はその後、自身の過ちを学生たちや一般市民、メディアに向けてオープンに語るようになっていった。ルメジャー氏がおかし、自ら正したミスは、結果的に同氏のキャリアをつぶすことにはならなかった。しかし同氏の名は今後も、このミスとともに記憶に残り続けるだろう。

原文タイトル:This New York skyscraper had a 1-in-16 chance of collapse. Only one man knew(抄訳)

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