「認知症を防ぐパルス」の研究が進行中! 1日100本の科学論文を読む東大教授が紹介する「すごい科学論文」
(1)認知症リスクを下げる食べ物とは?
「抗炎症食」という言葉をご存知でしょうか。 文字通り、アレルギーなどの炎症反応を生じさせにくい食物のことです。ぜんそくや皮膚炎、関節リウマチなどの炎症性の疾患を持っている方は、普段から食事のメニューに気をつけていることでしょう。しかし、たとえアレルギー体質でなかったとしても、抗炎症食は健康によいと、いま注目を集めています。なぜなら、多くの疾患は、結局のところ、炎症に帰着するからです。 たとえば、動脈硬化や心筋梗塞では血管壁に炎症が生じます。これが症状の進行を早めます。糖尿病や肥満や腎機能障害などの代謝性疾患も、慢性的な炎症が病態の進行に関与します。さらに、がんの発生や進行にも炎症反応や免疫細胞の働きが深く関わっています。 意外なところでは、うつ病や統合失調症などの精神疾患、さらには自閉症スペクトラム障害などの発達障害が挙げられます。いずれも脳内の炎症反応が症状の発現や進行に関与していることが指摘されています。
こうした「隠れ炎症性疾患」の最たる例がアルツハイマー型認知症でしょう。アルツハイマー型認知症は、従来は炎症とは無関係だと考えられていましたが、近年の研究から、アミロイドβというタンパク質の脳内蓄積によってミクログリア(脳の免疫細胞)が活性化して炎症を引き起こし、神経細胞が損傷することが発症の原因であると明らかになっています。
カロリンスカ研究所のダヴ博士らが2024年8月の「JAMAネットワークオープン」誌に発表した論文を紹介しましょう【*1】。ここでは、約8万5000人の高齢者を対象に、抗炎症食と認知症リスクの関係を、12年以上にわたって追跡調査しています。調査期間中に約2パーセントの方が認知症を発症しました。 解析の結果は予想通りで、抗炎症食を心がけている方は認知症を発症しにくいことがわかりました。とくに、肥満、高血圧、糖尿病、高脂血症などの持病のある方で効果が顕著でした。もともと心代謝性疾患は、認知症リスクを2.4倍に増やします。心代謝性疾患も認知症もともに炎症性疾患ですから、リスクに相乗効果をもたらすのは当然のことです。しかし今回の調査から、抗炎症食を続ければ、心代謝性疾患によるリスク増加を1.7倍にまで抑えられることが明らかになりました。認知症リスクが約3割下がる計算です。 論文では、脳のMRI検査でも効果を調べています。抗炎症食をよく取る人は、神経細胞が存在する灰白質の容積が大きく、また、神経線維が分布する白質の異常が少ないことが確認されました。
気になる抗炎症食の中身ですが、一般的には、イワシやマグロなどのオメガ3脂肪酸を豊富に含む魚、レンズ豆やヒヨコ豆などの豆類、ブルーベリーやリンゴなどの果物、ブロッコリーやほうれん草などの葉野菜、玄米やオートミールなどの全粒穀物、アーモンドやくるみなどのナッツ、そして良質な脂肪としてエクストラバージンオリーブオイルなどが挙げられるそうです。
池谷裕二さん
(2)アルツハイマーを防ぐ身近な物質とは?
細胞は薄い細胞膜で囲まれています。この膜を隔てて、「細胞内部」という、外側とは異なる独特な環境を作り上げています。細胞膜は地球上のすべての生物に共通している特徴で、しばしば生物の定義の一つとして取り上げられるほど重要な要素です。 細胞膜の主成分は「リン脂質」です。言ってみればレンガのようなものです。レンガを集めて建屋の壁を作るように、細胞もリン脂質を集めて細胞膜を作ります。一つの細胞に10億個ものリン脂質が用いられます。 リン脂質の約半数は「ホスファチジルコリン」という分子です。これはコリンや脂肪酸やグリセロールなどの素材分子から体の中で合成されます。この合成経路は発見者の名前をとって「ケネディ経路」と呼ばれています。 ホスファチジルコリンの材料のうち、鍵を握るのはコリンです。コリンは、ほかの材料と違って体内で合成できないため、食べ物から摂る必要があります。 健康によい食事メニューとして、タンパク質やブドウ糖や脂肪、あるいはビタミンやカルシウムなどを意識することはあっても、コリンを意識する方は少ないでしょう。しかし、コリンを摂取しないことは、細胞膜が作られないことと同義です。 コリンは特殊なサプリメントで摂取する必要はありません。身近な食材に含まれています。卵や魚、ブロッコリーなどは豊富にコリンを含んでいますから、適度な摂取で必要な量を補うことができます。ただし乳児期や妊娠中には通常よりも多くのコリンが必要です。なにせ細胞が爆発的に増殖する時期ですから、コリンを大量に消費するのです。
コリンは脳内では「アセチルコリン」の材料となります。アセチルコリンは脳を代表する神経伝達物質です。アセチルコリンが増えれば記憶や学習の能力が高まりますし、減れば認知能力が低下します。またアルツハイマー型認知症では、アセチルコリンの神経細胞がまっさきに脱落します。だから、物忘れや失語などの症状が出るのです。実際、普段からコリンを十分に補給しておくことがアルツハイマー病の予防に効果があり、また、仮に発症しても症状が軽くなることが、動物実験によって示されています【*2】。
2024年5月の「ネイチャー」誌には、脳がどのようにコリンを取り込むかという分子メカニズムを明らかにする論文が発表されました【*3】。脳には「血液脳関門」があり、有害な物質の侵入を防いでいます。しかし、コリンを含む、必要な栄養素の運搬もブロックしてしまいます。コリンは、このバリアを通過するために、FLVCR2という特殊な輸送ポンプを利用しています。そのポンプの構造が分子レベルで解明されたのです。 朝食に並ぶ目玉焼きや焼き魚――。日常的な食卓だと思っていたものが、実は脳を支える大切な要素で、その一口が脳にどれほど大きな影響を与えているかと考えると、なんだか料理の味まで変ってきそうです。
(3) アルツハイマー病を防ぐ「光」がわかった?
アルツハイマー病は、誰にとっても不安の種です。日本人の生涯罹患率(最終的にアルツハイマー病を発症する確率)は、女性で42パーセント、男性で20パーセント。この数値を見て「なんだ半分以下か。罹らない人のほうが多いんだ」と感じた方は健全な心の持ち主。 そしてアルツハイマー病は、その多くが孤発性。つまり遺伝的要因によらないもので、運命の悪戯のように忍び寄ってきます。発症すれば、介護する周囲の人たちに大きな負担がかかりますが、患者本人は自分自身が介護されていると自覚することさえ困難になります。
日本では、2023年以降2つのアルツハイマー病の新薬が承認されました。治療効果が認められているとはいえ、どちらも完璧ではありません。神経細胞の死滅が病因ですから、発症してしまうと後戻りが難しいのです。
そんなアルツハイマー病ですが、いま新たな光に注目が集まっています。文字通り「光」です。光と音のパルス(波形の刺激)が出るヘッドセットをかぶるだけで認知機能の低下を防げるというのです。まるで魔法のような話ですが、マサチューセッツ工科大学の蔡立慧博士らが真剣に取りくむ研究です。 治療の鍵を握るのは、ガンマ波と呼ばれる約40Hzの脳波。ガンマ波は、注意力や記憶力など、高度な認知機能に重要な役割を果たしています。アルツハイマー病患者はガンマ波が弱まっているので、蔡博士らは「ならばガンマ波を増やせばよい」と、脳の外部から光と音の40Hz刺激を与えることにしたのです。理屈には合っていますが、着眼点が幼稚すぎて、普通の研究者だったら試みようとすらしないでしょう。 ところが、このアプローチが功を奏します。ネズミに刺激を与え続けると、脳内のガンマ波の発生が促進されました。そしてアミロイドβというアルツハイマー病の原因物質の蓄積が抑えられ、認知機能は健康なレベルに保たれたのです【*4】。 そこで博士らは、40Hzの光と音を発するヒト用のヘッドセットをデザインし、アルツハイマー病患者で試しました。すると、脳の萎縮と認知機能の低下が抑制された症例があったのです。現在、治験規模を拡大して、600人以上の患者を対象に有効性を確認しています。 まるでモーツァルトを聴かせて植物の成長を促進させるようなもので、専門家の間では「都合がよすぎる」「こんな虫のいい話があるのか」との懐疑的な見方もあります。 しかし産業界では、この流れを受けて40Hz刺激装置が続々と市販されています。日本でも大手企業の塩野義製薬などが開発したガンマ波サウンド装置が販売されています。いずれも医療機器として承認されたものではありませんので、実際の効果については慎重に検証すべきです。
とはいえ、お手軽な装置なので、仮に「おまじない」と変わらないレベルであったとしても、試してみたいと思うのは私だけでしょうか。
*1 Dove, A. et al. Anti-inflammatory diet and dementia in older adults with cardiometabolic diseases. JAMA Netw. Open 7, e2427125 (2024). *2 Velazquez, R. et al. Lifelong choline supplementation ameliorates Alzheimer’s disease pathology and associated cognitive deficits by attenuating microglia activation. Aging Cell 18, e13037 (2019). *3 Cater, R. J. et al. Structural and molecular basis of choline uptake into the brain by FLVCR2. Nature 629, 704-709 (2024).
*4 Iaccarino, H. F. et al. Gamma frequency entrainment attenuates amyloid load and modifies microglia. Nature 540, 230-235 (2016).