高田繁氏 長嶋茂雄さんの知られざる阪神戦の定宿での食事エピソード 「あの人だけだよ、竹園で夜に魚を食べるのは」

 巨人V9時代に鉄壁の守りと俊足巧打の名バイプレーヤーだった高田繁氏(79)。長嶋茂雄さん(享年89)はプロフェッショナルとしてのお手本であり、常識破りのコンバートで、新境地に導いてくれた恩師でもあった。3日に初めての月命日を迎えるミスターの知られざる一面を語った。(取材・構成=太田 倫)

 「ONにどういうイメージを持っている?」。高田が、質問を投げかけてきた。「長嶋さんは天然なところがあって無頓着で…王さんはストイックで繊細で…」などと答えると「全然違うよ。逆だよ」と、笑いながら首を振った。現役時代の長嶋さんで真っ先に思い出すのは、そのプロフェッショナルな姿だという。

 「オレの一番お手本になったのが長嶋さんだった。例えば甲子園に遠征して、芦屋の竹園旅館(巨人の定宿)に泊まると、長嶋さんはだいたい朝一番早く起きている。ナイターの翌朝でも8時か9時には起き出している。散歩がてら近くの芦屋神社にお参りして、素振りをして一汗かいてシャワー。それから昼食になる。竹園はもともとお肉屋さんで、夜もステーキが出る。長嶋さんは昼は肉を食べるけど、夜は魚とか消化にいいものにして、早く休む。あの人だけだよ、竹園で夜に魚を食べるのは!」

 猛練習もするが、夜はチームメートと肉をつつき、お酒もたしなむ王貞治とは対照的だった。入念なマッサージを受けるのもまた、ミスターの日課だった。

 「早く終わってくれよ~と思うくらい、しっかりマッサージしてもらっていた。長嶋さんは確かに天才だったかも分からないけど、何も考えないであれだけの成績を残せたわけじゃない。普段からものすごく体に気を使って、食べ物のことまで考えていた。『豪快で無頓着』みたいな、世間のイメージは全く違うんだよ」

 現役時代の高田は身長173センチ、70キロと小柄。体力のなさを自覚していたから、コンディショニングには人一倍気を使った。

 「竹園で魚? 頼めなかったよ。オレは周りに合わせていた(笑)。さすが長嶋さんだよ。オレらが言っても、(旅館の方で)聞いてくれなかったんじゃないかな」

 75年、新人監督の長嶋さんが率いた巨人は、球団史上初の最下位に沈んだ。高田も打率2割3分5厘、6本塁打、31打点と不振に終わった。

 「長嶋さんが監督じゃなかったらもたないよ。よく体を壊さなかったと思う。苦しそうどころじゃない。ダントツ最下位なんだもん。オレも成績が悪くて足を引っ張った。本当に申し訳なかった。あの人は激情家だからね。手に包帯巻いて球場に来るから、どうしたんだって思ったら、庭の松を思い切りたたいて手を痛めたらしい、とかね。木を思い切り蹴飛ばして、湿布を巻いて、足を引きずって歩いている…とか。そんな状態だった」

 苦境を乗り越え、76、77年はリーグ連覇を果たす。77年5月19日の福井での大洋戦は、忘れられない日になった。チームは1分けを挟んで6連敗中。その試合も9回2死まで4―5で負けていたが、土壇場で柴田勲が四球。続く高田が逆転サヨナラ2ランを放った。

 「ホームに帰ってきたとき、初めて長嶋さんにハグされた。サヨナラホームランも初めてだったし、余計にうれしかった。自分のキャリアで、1試合選ぶとしたらその試合だね」

 ミスターは憧れでもあり、頼もしいチームメートでもあり、76年には左翼から三塁手への前代未聞のコンバートで新たな道を開いてくれた恩人でもある。

 「ここというときに必ず期待に応えてくれる。打って守って走って、そこに魅(み)せるというのも加わる。選手として一番秀でていたのは身体能力やろうね。若い時のグラウンドの走り方を見てごらんよ。バネの塊だよ。本当にほれぼれする躍動感だった。もうあんな人は出てこない。出てこないから、長嶋茂雄なんだ。一緒にプレーできて、こんなに幸せなことはないよ」

 ◆高田 繁(たかだ・しげる)1945年7月24日、鹿児島県生まれ。79歳。浪商(現・大体大浪商)から明大に進み、67年ドラフト1位で巨人入団。68年に新人王。69年から4年連続ベストナイン。80年引退。85年から4年間、日本ハム監督。巨人の1軍コーチ、2軍監督、日本ハムGMを歴任し、08年から10年途中までヤクルト監督。11年12月にDeNAの初代GMに就任し、18年まで務めた。右投右打。

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