「今出したら町民は大変なことになる」現場の訴えでスクープ写真の掲載は見送られた<被災記者 河北新報・渡辺龍の5年6カ月(5)>
東日本大震災の津波で、宮城県南三陸町にあった河北新報の志津川支局(現気仙沼総局南三陸分室)も流失した。駐在記者の渡辺龍(りょう)は南三陸の復興の歩みを追い続けたが2016年9月、大腸がんのため43歳で死去した。震災から15年。渡辺は南三陸の何を伝え、どんな未来を思い描いたのか。被災記者の軌跡をたどった。(門田一徳)
河北新報志津川支局(現気仙沼総局南三陸分室)は、JR気仙沼線志津川駅の南西約300メートルの住宅地にあった。支局記者の渡辺龍が妻薫(51)、長男有(21)と3人で暮らしていた職住一体の支局は土台を残して津波に流された。
家族は全員無事だったが、家具も衣服も思い出の写真も何もかも流失した。
報道部次長の鹿又久孝(65)は、仕事よりも家族、生活の再建を最優先するよう伝えた。渡辺は鹿又に「自分が赴任しなければ家族にこんな思いをさせることはなかった。家族に申し訳ない」と打ち明けた。
宮城県登米市に志津川支局が開設されたのは4月中旬。それまで渡辺は仙台市若林区の妻の実家から南三陸町に通った。取材の合間のわずかな時間を使い、家族の思い出の品を捜して歩いた。
支局の近くで見覚えのある水色の箱を見つけた。4月に小学校に入学する有のために妻の母が買ってくれた紺色のランドセルが入っていた。薫の高校の卒業アルバムが見つかった。水に漬かり紙はぶよぶよにふやけていた。
家族の写真もいくつかあった。端の部分は色が落ちて白く変色していた。有が生まれた時、3人での記念撮影、有が薫にキスした瞬間。渡辺は見つけ出した写真一枚一枚の泥を丁寧に落とし、乾かした。
事実を伝えるべきか、被災者の心情に配慮すべきか
津波が押し寄せ、防災庁舎の屋上に避難する町職員ら=2011年3月11日午後3時29分、宮城県南三陸町(写真展示館「南三陸の記憶」提供)発生からもうすぐ1カ月となる2011年4月上旬、共同通信が7枚の組み写真を配信した。津波に襲われる防災対策庁舎を地元の写真店店主が撮影したもので、スクープとして河北新報にも送られてきた。
屋上に避難する約30人が津波をかぶり、10人ほどになった瞬間が克明に写し出されていた。事実を伝えるべきか、それとも被災地の人たちの心情に配慮すべきか。報道部デスクの間で判断が分かれた。
現地の取材チームに電話が来た。意見を求められた渡辺は、町総合体育館の避難所で住民の代表者らを回った。
「これから大変なのに、生きるか死ぬかという写真を見せられるのはつらい」「河北さんの影響は大き過ぎる。読む人の心境を考えてほしい」。返ってきたのは、どん底の状況から必死にはい上がろうとする被災者の切実な声だった。
町外一時避難についての住民説明会が開かれた町総合体育館=2011年3月26日、宮城県南三陸町「あのタイミングではない」
渡辺は地域に根を張る支局記者であり、地域に暮らす住民であり、住まいを流された被災者でもあった。「今、写真を出したら町民は大変なことになる」。取材チームのまとめ役のキャップに訴えた。
その日夕方、冷たい雨の降る現地に電話が入る。「掲載は見送る」との本社からの連絡だった。
報道部統括デスクだった大江秀則(63)は「事実を伝えることは報道機関として大切だが、被災者に寄り添うことは何よりも大事。現場記者の意見を聞き、あのタイミングではないと判断した」と当時を振り返った。
共同通信の加盟社の多くは配信の翌日、防災対策庁舎の写真を大きく取り上げた。河北新報は震災10年後の21年2月、連載企画「ドキュメント防災庁舎 震災10年南三陸11人の証言」の中で、初めてこれらの写真を掲載した。(肩書は当時。敬称略)
屋上まで津波にのみ込まれた防災庁舎。アンテナポールに登った職員もいた=2011年3月11日、午後3時33分、宮城県南三陸町(写真展示館「南三陸の記憶」提供)