12歳の少女が見た昭和40年 「地上の楽園」北朝鮮に帰った親友と「シェー」でお別れ

盛大な見送りを受けて新潟港を出港する北朝鮮への最初の帰還船(昭和34年12月)。事業を進めたのは日朝両国の赤十字社。12年間で9万人超の集団移住は世界の注目を浴びたが、「地上の楽園」とは程遠かった

<当時の出来事や世相を「12歳の子供」の目線で振り返ります。ぜひ、ご家族、ご友人、幼なじみの方と共有してください。>

親友の康子ちゃんは、お母さんは日本人だが、お父さんとおばあさんは朝鮮人だ。康子ちゃんの名字は日本によくある名字なので、そのことを知らない友達もいる。うちの祖父などはちょっと下に見たような言い方をするが、両親は特に何も言わないし、学校もいつも一緒に行っている。この間も家に遊びに行って、おばあさん手作りのキムチを食べさせてもらった。

康子ちゃんのお父さんは、まだ子供だった昭和の初めに一家で日本に来たという。ただ、当時の朝鮮半島が日本だったことを私はよく知らなかったので、「海外転勤みたいなもの?」と聞いたら康子ちゃんは「出稼ぎみたいなものだと思う」と言われてちょっと気まずかった。

終戦後、故郷に帰った人も多かったが、昭和25年に朝鮮戦争が始まったため帰国するタイミングを逃したという。康子ちゃんのお母さんは日本人だし、このままずっと日本にいればいいのにと思う。

この年は世界的なニュースが多く、2月にはアメリカが北ベトナムを爆撃してベトナム戦争が本格的に始まった。実際には北ベトナムと南ベトナムの戦争だが、アメリカは南ベトナム、ソ連や中国などは北ベトナムを支援していて、米ソによる東西冷戦の代理戦争とも呼ばれるとニュースで言っていた。

朝鮮戦争も南北に分かれた戦争で、アメリカやソ連が支援したというからよく似ていると思った。康子ちゃんのお父さんが生まれたのは朝鮮半島の南側で今の大韓民国のほうというが、同じ国が敵と味方に分かれて戦うなんてすごく悲しいことだと思った。

半島の人たちは当時日本語が話せたので、朝鮮戦争の時は、戦場に日本語の汚い言葉が飛び交っていたらしいと康子ちゃんのおばあさんに聞いたことがある。

3月にはソ連の宇宙飛行士が初めて宇宙遊泳に成功したが、その3カ月後にはアメリカの宇宙飛行士も成功した。ただ、宇宙に人が浮いているところを私が実際に見たわけではないので何だか信じられない。それよりも米ソが宇宙進出でも先を争っていることが何だか怖い気がした。

日韓条約調印式が無事に終了し退席する佐藤栄作首相=昭和40年、東京都千代田区永田町の首相官邸大ホール

日本も6月に韓国と日韓基本条約を結び、国交正常化したニュースがあった。康子ちゃんとあれほど毎日一緒に遊んでいるのに、戦争が終わってから20年も日本と韓国に正式な国交がなかったと聞いて驚いた。

日本が大きな額のお金を払うこともあり、日韓は戦前にいろいろあったが、これで新しい関係になるという。ただ、北朝鮮とは今のままらしく、テレビでは韓国よりも北朝鮮と仲良くしたほうがいいと話している専門家もいた。

同じような話を康子ちゃんの家でも聞いた。北朝鮮は「地上の楽園」で、仕事もたくさんあって生活も保証されているという。日本は去年の東京五輪が終わったころから景気が悪くなり、康子ちゃんのお父さんも最近は働くところがあまりないらしい。

その後、康子ちゃんの家は本当に一家で北朝鮮に行くことになった。康子ちゃんもお母さんもあまり気が進まないようだったが、「いつでも帰って来られるから」と言われたそうだ。本当は韓国側の出身だが、北朝鮮は関係なく受け入れてくれるのだという。

お別れの前に康子ちゃんと流行の映画「サウンド・オブ・ミュージック」を見に行った。戦前のオーストリアでナチスの占領下にもかかわらず楽しく生きる一家のお話だ。

「シェー」のポーズをとる「おそ松くん」の作者、赤塚不二夫さん=小学館提供

映画の中の「ドレミの歌」や「エーデルワイス」を手をつないで一緒に歌いながら家に帰って、私のお父さんに記念写真を撮ってもらった。「おそ松くん」のイヤミの「シェー」のポーズをして2人で笑い合った。すごく楽しい一日だったのに、私はなぜだか、もう一生康子ちゃんに会えないような気がした。

※在日朝鮮人の帰還事業は主に昭和34年から行われ、約9万3千人が北朝鮮に渡った。中には日本人妻も約1800人いたとされる。当初は「地上の楽園」と宣伝されたが、後に脱北者らの証言で、収容所に入れられたり、過度の貧困や差別に苦しめられたりしたことなどが明らかになった。

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