なぜヒトの声には個性があるのか? 喉から消えた「膜」の正体

解剖学的な観点から見ると、ヒトの発声器官は意外なまでにシンプルだ。振動する左右2枚のひだである「声帯」、声帯で生み出された音が口から外に出るまでの空気の通り道である「声道」(男性で長さ約17cm)、その声道を満たし音を共鳴させる空気の柱の3つでで構成されている。   シンプルであるにもかかわらず、この発声器官からは、言葉などの複雑な発声が生まれる。そして、たとえ会ったことがない人の声であっても、1度耳にすれば群衆のなかで聴き分けられるほど、人それぞれに独自の「声」が生まれる。 発声の仕組みは、ある程度まで解明されている。とはいえ、自然選択はあらゆる方向へと進むことが可能だった。なぜこれほど精密で、他者との違いが明確な声が生み出されたのかについては、いまだに理解されていない。 しかし、何よりも驚くことがある。実に精密で、何百年もの長きにわたる言語の継承を可能にしただけでなく、誰が発した声かがわかるほど個性のあるヒトの声は、進化によって加えられたものではない。そうした声はむしろ、進化が何かを取り除いた結果として生まれたのだ。以下で説明していこう。 ■ヒトの声が誕生した背景にある逆説的な理由 チンパンジー、ニホンザルなどのマカク属、ホエザル属といった霊長類の大半は、声帯の上に「声帯膜」という、薄いリボン状をした構造を持つ。この膜から作り出される音は、無秩序で予測不可能な音の層になり、科学者たちは「非線形音響現象(nonlinear acoustic phenomena)」と呼ぶ。これにより霊長類の発声は、力強く声高だが、根本的には不安定な(長時間にわたって声を出し続けると、振動が乱れる)ものになる。 2022年に『Science』で発表された研究によると、霊長類の中でこの膜を完全に失ったのはヒトだけだ。そのため解剖学的に見て、ヒトの喉頭は、霊長類の基準に照らし合わせると、よりシンプルになっている。そして、シンプルだからこそヒトの発声器官は、安定していて制御しやすく、速やかに変調が可能で、発話の際に必要な音を作り出すことができるようになった。進化が引き算を行なったことと、ヒトの言語が複雑なものであることは連動しているのだ。 しかし、声帯膜の喪失は、変容の説明としてはまだ半分にすぎない。残りの半分は、喉頭より上の声道(supra-laryngeal vocal tract:SVT)、つまり、咽頭と口腔、鼻腔で構成される管状の領域で起きた。  ヒト以外のすべての霊長類の場合、この管状の領域は、垂直方向と水平方向の長さが一致しない形状をしている。両方の長さが正確な1対1の比率になっているのは、現生人類だけだ。こうした均一の形状のおかげで、舌が垂直方向にも水平方向にも動くため、桁外れに幅広い音を作り出せるようになった。 2020年に『Nature』で発表された研究で、遺伝学研究者は、発話に関わるさまざまな遺伝子の制御変化を追跡している。具体的には、胎児の発生や体の成長過程において、特定の遺伝子群のスイッチをコントロールするNFIXやSOX9のほか、FOXP2(発話に関わる神経経路だけでなく、声道の物理的構造も形作る、いわゆる「言語遺伝子」)といったものだ。こうした「垂直方向と水平方向の長さが一致する構造」が出現したのは、進化の過程でネアンデルタール人とデニソワ人が分岐した後であることが示唆されている。 私たちが発する声は、地質学(地球の歴史)的に言うと「ごく最近」の発明であり、解剖学的に言うと、現代的なホモ・サピエンスのDNAのみに刻まれているのだ。私たちは誰もが適切な声道を持っている。しかし、あなたの声道(から響く声)と私のものとでは、何が違うのだろうか。 ■骨格がヒトの声に及ぼす意外な影響 声帯で生まれた音は、声道を通って上へと向かうが、声道は単なる音の通り道ではない。ここで、必要な音は増幅され、不要な音はフィルタリングされる。 咽頭、口腔、鼻腔は、一連の共鳴腔としての役割を担い、それぞれが特定の周波数を、強めたり弱めたりしている。こうしたプロセスを生き延び、最大のエネルギー強度で口から発せられる周波数を「フォルマント」という。そしてこのフォルマントこそが、ほかのどの音響特性よりも声に個性を与え、認識し得る声へと仕立て上げている要素なのだ。 個々のフォルマントは、声道が持つ独特の形状によって決まる: ・声道の長さ ・声道の容積 ・硬口蓋の湾曲度 ・咽頭の深さ ・頭蓋底と脊椎が接する角度 上記の値(頭蓋底の角度や、上顎のくぼみの深さ、咽頭腔の容量)は、人によって構造的に差があり、それがほんのわずかに違うだけで、フォルマントの特徴に知覚可能な変化をもたらす。 発声器官は、頭部の中に組み込まれたパイプオルガンのようなものだと考えてほしい。パイプオルガンはみな、使われている基本的な素材が同じで、同一の音響原理に従っている。ところが、何世紀にもわたって製造されてきたにもかかわらず、音色がまったく同じものは一つとして存在しない。 あなたの発声器官は、あなた自身の遺伝子、言い換えれば祖先から受け継いだ、特有の骨格成長過程によって形づくられている。その発声器官から生まれる共鳴音は文字通り、あなた自身の体の造りが奏でる音なのだ。 体が奏でる音には、よく知られている全体的な傾向がある。男性は、声道が女性より長いので、生み出されるフォルマント周波数は女性より低い。音域に一般的な男女差があるのはそのためだ。 男女の差よりもさらに興味深いのは、個々の人間における微妙な違いだ。同じ性別であっても、声には個人差があり、一つ一つの声が識別可能な音響的個性を持つ。身長と声道の長さがまったく同じ男性が2人いたとしても、硬口蓋の湾曲度や副鼻腔の形状が異なり、頭蓋骨の構造に微妙な差異があれば、発せられる声も変わってくる。 あなたの声は、単に体から生み出されるものではない。ほかの誰でもない、あなた特有の体から生み出されるものなのだ。 ■ヒトの声は、独特な伝わり方をするだけではない 2022年に『PLOS Biology』で発表された研究では、聴覚を司る大脳皮質の一部である「聴覚野」に2つの領域があることが特定された。これらの「上側頭回」と「上側頭溝」は、音を処理するだけでなく、ヒトの声を、知覚的に区別されたカテゴリーとして扱うことに特化している。 この2つの領域は、声に対して、ほかの複雑な音に対する時と同じように反応するわけではない。声が聞こえてくるとそれを、特定の社会的意味を伴い、特別の注意を必要とするある種のシグナルとみなして反応するのだ。 驚くことにこのシステムは、私たちが生まれる前に動き始める。1980年に『Science』に掲載された画期的な研究では、胎児がまだ子宮内にいる時から母親の声を認識し、生後もすぐに、ほかの女性の声よりも、母親の声が持つ音響学的な特徴に優先的に反応することが示された。 つまり、声を認識する脳内の仕組みは、生まれて初めてゼロから習得するものではないのだ。調整済みの仕組みとして、脳にもともと備わっていて、声には個人差があることを理解している。人それぞれに永続する音響的な特徴があり、声ごとに違うフォルマントの声紋は、ほかの声と区別する価値があることを理解しているわけだ。 進化は単に、私たち一人一人に唯一無二の声を与えただけではない。生まれて初めて言葉を発する前から、「声はそれぞれ独特のものだ」と予期する脳を構築した。そして、訓練された聴覚システムは、たった一つの音節から、性別やおおよその年齢、体の大きさ、感情の状態、その人のアイデンティティを同時に抽出する。 声は、驚くほど密度の高い社会的データのパッケージを伝えている。そうなると、これらすべてに関する根源的な疑問が湧いてくる。つまり、「なぜなのか」という疑問だ。 進化生物学の世界でよくあるように、この疑問に対する答えは、集団生活における選択圧に行き着く。人間の発話を可能にする、解剖学的・神経学的な完全なメカニズムが、現在のヒトに備わったのは、10万年から5万年前のどこかの時点と推定されている。 そのタイミングは偶然ではなく、考古学者と人類学者が「行動的現代性(behavioral modernity)」と関連付ける時期と重なっている。行動的現代性とは、象徴的思考や、長距離間の交易が出現し、協調的に狩猟を行うようになり、意思疎通だけでなく、時間や距離を問わず個人を確実に認識するために必要な、入り組んだ社会的協調が生まれることを意味する。 流動的に変化する社会集団の中で生きる種、つまり、同盟を組み、評判を把握し、長期的な協力関係を構築する種は、たとえ発話者に背を向けていても、誰を相手にしているのかを知る必要がある。それぞれの声が唯一無二なのは、部分的には、そうした課題への解決策だ。つまり、簡単にはまねのできない、確実な声の特徴は、暗闇であろうが、曲がり角の先にいようが、混雑した部屋にいようが、伝わってくるのだ。

Scott Travers

Forbes JAPAN
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