AIの力を活用し「マウスの電子脳」を作成することに成功
脳という存在は、何層にも入り組んだ迷路のように複雑で、私たちの想像をはるかに超えた情報を日々処理しています。
脳を研究するうえでマウスは重要な実験動物として長年使われてきましたが、頭蓋骨の中にはおよそ七千万~一億個もの神経細胞(ニューロン)が存在し、お互いに電気信号をやりとりしながら連携し合っています。
しかも、そのつなぎ目である“シナプス”のネットワークはあまりにも膨大で、全貌をつかむのは非常に難しいとされてきました。
一方で、研究技術の進歩はめざましく、マウスが映像を見ているときにどのニューロンが活動しているかを一度に何万個も観察できるようになりました。
さらに、電子顕微鏡を使って脳の微細な構造まで調べるプロジェクトも進行しており、ニューロンの形やシナプスの配置を詳細に把握できるようになっています。
これらの取り組みは脳研究の“ビッグデータ化”とも言える大変革で、大量の情報が日々蓄積されているのです。
しかし、その膨大なデータをどう整理して“脳の全体像”に近い機能モデルへつなげるかは、また別の大きな課題でした。
なぜなら、たとえばある映像をマウスが見たときに反応するニューロンのパターンは、マウスの個体差や映像の種類、マウスが置かれた環境の変化などで大きく変わるからです。
イメージとしては、同じ地図を使っているつもりでも、マウスによってコンパス(方位磁針)のずれ方が少しずつ違うような状態だと言えます。
ここで注目を浴びているのが、最近あちこちで耳にするAI、特にディープラーニング(深層学習)の技術です。
マウスの視覚野がどのように情報を処理するかを、人工ニューラルネットワークの各モジュール(視点情報、行動情報、核となる処理部、出力部)で図示 / この図は、マウスの視覚野がどのように情報を処理するかを、人工ニューラルネットワークの各モジュール(視点情報、行動情報、核となる処理部、出力部)で図示した、いわば「脳の仕組みの地図」です。マウスが見た映像や動きがどのように分解され、最終的に各ニューロンの反応として再現されるかという、全体の流れを示しています。/Credit:Eric Y. Wang et al . Nature (2025)たとえば、写真の分類や文章の生成を行うAIの世界では、大量かつ多様なデータを事前に学習させる“ファウンデーションモデル”が次々と実用化されています。
犬や猫、風景、文字など、あらゆる画像や文章を一括で学んでしまえば、新しい分野の写真や文章にも柔軟に対応できる――こうしたアイデアは、複雑なマウスの脳研究にも応用できるのではないかと考えられているのです。
従来の脳モデルでは、たとえば自然の動画だけを使って学習させると、ギャボールパッチ(白黒の縞模様)やノイズなど人工的な刺激を与えたとき、一気に精度が下がってしまうことが多々ありました。
まるで「特定の町の地図だけは詳しいカーナビ」が、新しい道に入った瞬間に道に迷うようなものです。
これでは、脳がどうやって幅広い映像や状況に対応しているのかを十分には説明できません。
そこで最近注目されているのが、“ファウンデーションモデル”を脳科学に取り入れようとする研究です。
イメージとしては、「複数のマウスから集めた大量の映像・行動データを一つにまとめて、そこから“基礎となる要素”を抽出しよう」という感じです。
たとえば、いろんな街の地図を全部重ねてみて、「このへんは住宅街が多い」「ここは山がちで道が少ない」といった“共通項”を浮かび上がらせるイメージに近いでしょう。
そうやって見つけた“共通のコア”をAIに覚えさせれば、新しいマウスが登場しても、そのわずかな差分をちょっと補正するだけで「このマウスはこう反応しそうだな」と脳活動を予測できるようになる、というわけです。
さらに興味深いのは、電子顕微鏡で調べたニューロンの形やシナプスの配置が、AIが学習した「機能的な特徴」(脳がどんな計算をしているかを示す指紋のようなもの)と対応づけられる点です。
これによって、コンピュータ上で動いている“電子脳”が本当に実際の脳構造に近いかどうかを確かめられるようになってきました。
もし整合性が高ければ、その“電子脳”を使って仮想的な実験を行い、まだ試していない映像や条件での脳活動を予測したうえで、実際のマウス実験に役立てる――そんな効率的なサイクルが実現するかもしれません。
「電子脳」という言葉が使われる背景には、このシステムが数値モデルというよりは、実際のニューロンの活動や情報処理のメカニズムを“電子”の世界に移植し「仮想空間のなかに脳をそっくり作り上げる」という点があります。
もし本当にコンピュータ上の“マウス脳モデル”が、生きたマウスと同じようにいろいろな映像や状況に対応できるのなら、脳研究は新たな段階へと突入するでしょう。
実験動物を長時間観察する必要がないだけでなく、人の手間やコスト、さらには生命倫理上の負担も大幅に軽減できる可能性があります。
いつでも呼び出せる“電子脳”を通じて、私たちは脳の仕組みを仮想空間で詳しく調べ、理解を深めるチャンスを手にしはじめているのです。
こうした流れを背景に、今回研究者たちは複数のマウスから何時間もかけて集めた豊富な視覚データをAIに学習させ、まずは全マウスに共通する“コア”を作りました。
さらに、新しく登場したマウスには最小限の追加データだけ与え、自然界の動画だけでなく人工的なパターンにもどれほど対応できる“マウスの電子脳”が作れるかを確かめようとしています。