旅の帰り道が短く感じるのは脳の錯覚ではない!認知科学が解明する「帰路効果」のメカニズム

「帰路は早い」これは多くのドライバーが体験する不思議な感覚だ。行きは長く感じた同じ距離の道のりが、帰りになると途端に短く感じる。この「帰路効果」と呼ばれる時間知覚の歪みは、単なる気のせいではない。 認知心理学の研究によると、脳は慣れない道と慣れた道とでは、まったく異なる処理をしているという。目的地に向かう時は新しい情報に神経を集中させ、帰路では脳がオートパイロットモードかのように切り替わる。日々の通勤でも、旅行先でも、私たちの時間感覚はハンドルを握る手と同じように勝手に動いている。

今回は、運転中のこの不思議な時間体験の謎に、最新の認知科学の視点から迫る。

行きは時間がかかり、帰りのほうが短く感じる。

行きと帰りで同じ距離、同じ道のりなのに、なぜか帰りのほうが短く感じるこの現象は「帰路効果(Return Trip Effect)」と呼ばれている。日本認知科学会(JCSS)では以下の研究内容が発表されている。

「リターントリップエフェクト」研究の理論的問題に関する考察

2011年、オランダのユトレヒト大学の研究チームは、多くのドライバーが日常的に体験しているこの時間知覚の歪みを科学的に実証した。その実証実験は、被験者に同じ道のりの往復を体験してもらい、それぞれの所要時間の感覚を比較するというものだ。実際の所要時間はほぼ同じであったにもかかわらず、多くの参加者が帰路のほうが短く感じると報告したのだ。実験はサイクリングや徒歩でも同様の結果となり、移動手段を問わない普遍的な現象であることが明らかになった。

帰路効果の主な理由の一つは「予測可能性」にある。

行きの道では新しい景色や道路状況に注意を払うため、脳はより多くの情報を処理しなければならない。一方、帰りは一度通った道であるため、予測可能性が高まり、脳の認知負荷が減少する。その結果、帰りは時間が早く過ぎたという感覚につながるのだ。

また「目標到達感」も大きな要因だ。行きは目的地という明確なゴールがあるが、そこに到着するまでの時間は不確かさを伴う。帰りは「家に帰る」という親しみのある目標に向かうため、時間経過に対する不安が少なく、結果的に時間をより短く感じる傾向があるようだ。

私たちの脳内には、場所細胞や格子細胞と呼ばれる特殊なニューロンが存在し、これらが「脳内GPS」として機能している。この発見は2014年にノーベル生理学・医学賞を受賞した研究で、人間の空間認識の仕組みを解明する大きな進展となった。受賞者は英ロンドン大学ユニバーシティーカレッジのジョン・オキーフ教授と、ノルウェー科学技術大学のモーセル教授夫妻の3氏。

この脳内GPSは、慣れない場所ではより活発に働くという特性を持つ。つまり、新しい環境では細胞が頻繁に発火して空間情報を記録するため、脳はより多くのエネルギーを消費する。

一方、既知の道を走行する際には、脳はこのマッピング作業を省略できる。すでに作成された認知地図を参照するだけで済むため、認知リソースの消費が少なくて済む。この認知処理の違いが、行きと帰りの時間知覚の差を生み出す原因となっている。

興味深いことに、MRIスキャンによる研究では、新しい道を走行中の脳は、海馬や頭頂葉など空間認知に関わる領域がより活発に活動しているようだ。さらに、ストレスや注意の分散も時間知覚に影響を与える。慣れない道では不安やストレスが増加し、時間がゆっくり過ぎているように感じるのだ。

「フロー理論」は、運転中の時間知覚の変化を説明するうえでも重要な概念。

心理学者ミハイ・チクセントミハイが提唱した「フロー理論」は、運転中の時間知覚の変化を説明するうえでも重要な概念だ。

フロー状態とは、活動に完全に没入し、時間の感覚が変化する精神状態を指す。慣れた道を運転する際、特に帰り道では、ドライバーは無意識的にフロー状態に入りやすくなる。適度な難易度のタスクと、それを実行するための十分なスキルが揃った状態では、時間が飛ぶように過ぎる感覚が生まれる。

対照的に、未知の道路や複雑な交通状況では、ドライバーの注意は細部に集中し、意識的な処理を必要とする。このような高い認知的負荷がかかる状況では、時間はより遅く感じられる傾向がある。通勤ラッシュ時の渋滞で時間が遅々として過ぎないように感じるのも、この原理で説明できる。

心理学実験では、ドライバーに同じルートを繰り返し運転してもらうと、回数を重ねるごとに所要時間の主観的評価が短くなることが確認されている。これは「認知的熟練」と呼ばれ、反復によって処理が自動化されることで認知負荷が減少する現象だ。日常の通勤路が「気づいたら着いていた」と感じるのは、まさにこの認知的熟練の結果なのである。

帰路効果やフロー状態の理解は、より良いドライビング体験の設計にも応用できる。

例えば、カーナビゲーションシステムの開発者は、往路と復路で異なる情報提供方法を採用することで、ドライバーの認知負荷を最適化できる可能性がある。一方、慣れたルートでは注意散漫を防ぐため、新しい音楽の視聴など適度な刺激を取り入れることが有効だ。

興味深いのは、近年の研究で「デジタルディストラクション」が時間知覚に与える影響も明らかになってきた点だ。スマートフォンやカーオーディオなどによる気晴らしは、短期的には運転の退屈さを紛らわせるが、長期的には時間感覚の歪みを増幅させる可能性がある。最適なドライビング体験のためには、外部刺激と注意力のバランスを取ることが重要なのだ。

そして近年では自動運転技術の発展により、運転中の時間知覚の研究は新たな局面を迎えた。現在の研究では、受動的な移動では時間がより長く感じられる傾向があることが示唆されている。自動運転が実現した未来では、時間知覚の管理がユーザー体験設計において重要な要素となるかもしれない。

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