「出生時の後遺症で『脳性まひ』になった息子。数少ない『できること』を奪いたくないと、胃ろう手術に迷い…」(絵本『おなかのボタン』著者インタビュー)(たまひよONLINE)
2015年、第3子となるさっくんを妊娠していた平田さん。外では保育士として働き、家ではやんちゃざかりの7歳の男の子と5歳の女の子のママとして、忙しい毎日を送っていました。 「妊娠中期までは順調だったんですが、仕事と育児で忙しかったせいか、妊娠後期に入って切迫早産(せっぱくそうざん)になってしまい、妊娠37週に入るまで2カ月ほど入院しました。 『正期産になる妊娠37週に入ったから、いったん退院しましょうか』と病院から許可がでてようやく退院できたんですが、退院した日の夜に陣痛が来たんです。そして、病院に着いたときにはもう子宮口が10㎝近く開いていました。 3人目だし、すぐに出てきてくれるかなと思ったんですが、なかなか出てきてくれなくて…。ようやく生まれたと思ったら、病院から『とにかく今すぐ低体温療法が必要なので、お子さんを大きな病院へ搬送します』と伝えられ、顔も見ることもできず、息子だけが搬送されて行きました。 私は『とにかく無事であってほしい』と願うばかりでしたね」(平田さん) 翌日、さっくんが搬送された病院に平田さんも転院。そこで、出産時に低酸素状態が長く続いたことで、神経細胞が損傷していることを知らされたといいます。 「病院の先生からは、『MRIを見る限り、もしかしたら寝たきりになるかもしれないので、覚悟してください』と言われました。続けて『ただ、脳の発達は未知です。この子がどのくらいできるようになるかはまだわからないけど、赤ちゃんの脳は、ダメージを受けても、ほかの部位が役割を代替する可能性があるんです』っておっしゃったんですね。 実際に、当時からさっくんは人工呼吸器をつけずに自発呼吸ができているし、哺乳びんでミルクも飲めていたから『すごく頑張ってくれているんだな』と感じました。 10歳になった現在、さっくんは歩くことも言葉を話すこともできないという状態ですが、手足や首を自分で動かすことはできていますし、また表情や声を発したりすることで感情を表現することもできます。少しずつできることは増えているんです」(平田さん) その後、さっくんよりひと足先に退院した平田さん。退院後は、産後間もない体で搾乳した母乳を持って、片道40~50分かけ、さっくんが入院していた病院まで毎日通ったそうです。 「夫と一緒に通える日もあれば、1人で通った日もあって、病院の先生に疲れを心配されるほどでしたが、当時はとにかく息子に会える喜びのほうが大切でしたね。 息子もとても頑張ってくれて、初めは哺乳びん経由で飲んでいた母乳を、直母(ちょくぼ)でなんとか飲んでくれるようになって。呼吸もしっかりできていたから、生後1カ月を待たずに、退院することになりました」(平田さん) 晴れて、家族5人一緒に暮らせるようになったさっくんファミリー。さっくんは、脳の神経細胞が損傷している影響でてんかんを発症するなどのトラブルもありましたが、ミルクをメインの栄養にして、さっくんなりに成長をしていきました。そうするうちに、平田さんの育休終了の時期が迫ってきたのです。 「さっくんのことがあって、仕事を辞めようかなと考えた時期もあったんですが、自分が好きでなった保育士でしたし、できれば自分がやれるところまでやってみたいという思いがあり、仕事に復帰することにしました。 ただ、1歳半まで延ばしてもらった育休も終了の時期が迫ってきて、いよいよ保育園に入れなければ、ということになったんですが、問題になったのがさっくんのミルクのことです。 というのも、その当時、さっくんは、てんかんの治療の影響でミルクをぜんぜん飲んでくれなくなっていたので、経鼻経管栄養(※1)をしていたんですが、鼻からミルクを入れることは医療行為になるので、当時の保育園では対応できないといわれてしまったんです。 ※1 胃につながるチューブを鼻から入れて、鼻から栄養を注入する方法。 令和3年9月に医療的ケア児支援法が施行されたおかげで、今では医療的ケア児を受け入れてくれる保育園は増えてきたと思うんですが、その当時はなかなか難しくて。 最終的に、『お母さんがいる保育園だったら、保育士としてではなく、休憩時間に母親としてミルクを注入するのはいいですよ』という許可をもらうことができて、私が勤めていた保育園になんとか入れてもらうことができたんです。 だから、復帰後しばらくはその方法でやってみたんですが、私も毎日その時間だけ休みをもらってさっくんのところへ行くのはなかなか厳しくて。なんとか口から食べてもらわないと保育園に預け続けるのは難しいなと感じて、入園前から離乳食を始めて、少しずつですが水分とごはんを口から食べられるようになりました。 ただ、おなかがすいていると比較的食べてくれるんですが、ほかの子と比べると飲み込む力も弱いし、経鼻経管栄養をしているので痰(たん)が絡みやすい上、飲み込みづらい。担任の先生もさっくんのような子に食べさせることに慣れていないので、多分すごく大変だっただろうなと思います。 結局、経鼻経管栄養のチューブがないほうが、ごはんを飲み込みやすそうだったので、入園して1年後にはチューブを外して、口からの食事をメインにしました。 もちろん経鼻経管栄養のほうがしっかりと栄養はとれるので、保育園では口から食べて、家に帰ったらチューブを使って栄養剤を注入するという選択もできたと思うんです。でも、保育園でもごはんを口から食べてもらうには、家でも口から食べさせて練習しないといけない。そこで、思い切って、普段は口から食べてもらって、風邪などをひいて体力がなくて食べられなくなったときだけ、経鼻経管栄養を使うようになりました。 とはいえ、このときは正直どうすることが正しいのか、まったくわかりませんでした」(平田さん) 一方、基本的に口からの栄養摂取にしたことで、さっくんにとっても、平田さんにとっても、大変になったことがありました。 「私も仕事をしていたので、出勤時間に間に合うように、毎朝6時にはさっくんに朝ごはんを食べさせて、薬を飲ませていたんですが、その約1時間がすごく苦痛な時間でした。ヨーグルトとか本人が好きなものは、眠たくてもちょっと口を動かしてくれるんですが、その後の薬は大変で。 というのも、てんかんの薬は何種類もあって、必ず飲まなくちゃいけないものが多いんです。苦い薬を泣いて嫌がるさっくんに対し、必ず全量飲んでほしい私。泣いて嫌がる息子に無理やり薬を飲ませるのは本当につらかったです。 このやりとりは朝だけじゃなくて、夜も同じ。時間をかけてご飯を食べさせて、嫌がる薬を飲ませなくちゃいけない。しかも、さっくんにご飯を食べさせるだけじゃなくて、上の子たちのごはんも作らなくちゃいけないし、持ち帰りの仕事もある。夫も家事と育児を積極的に手伝ってくれていましたが、共働きで常に時間に追われて、余裕が全くありませんでした。そして、大変だし、ストレスもたまるけど、こんな生活になるのはしょうがないんだって思っていたんです。 でも、今思い返せば、嫌がる子に無理やり飲ませることは危険だし、そんな飲ませ方で誤嚥(ごえん)性肺炎になっていなかったのが不思議なくらい。さっくんは体のどこかでSOSを出していたのかもしれませんが、当時の私は、保育園へ通わせてなんとか仕事を続けられるようにしなくちゃと必死でした。息子の体の心配よりも、私は自分の仕事のことしか考えていなかったんだと反省しています」(平田さん) こうして、平田さん夫婦は毎日やらなければならないことと時間に追われながらも、さっくんは「元気なときは自分でごはんを飲み込む」ということを身につけ、保育園を卒園したのです。