バイオマーカーの1分子デジタルSERS計数法を開発
2025年9月1日
理化学研究所東京都健康長寿医療センター
-認知症検査などリキッドバイオプシーの多項目高感度化に道筋-
理化学研究所(理研)開拓研究所 渡邉分子生理学研究室の安藤 潤 研究員、渡邉 力也 主任研究員、東京都健康長寿医療センターの栗原 正典 脳神経内科医員、齊藤 祐子 研究部長、豊田 雅士 研究副部長らの共同研究チームは、表面増強ラマン散乱(SERS)光[1]を利用し、脳脊髄液などの液性検体に含まれる複数種のバイオマーカー酵素を1分子レベルで高感度に識別し、個数を定量可能な「1分子デジタルSERS計数法」の開発に成功しました。さらに、認知症患者由来の臨床検体を用いた実証実験により、脳脊髄液中の酵素(アセチルコリンエステラーゼ[2])の個数が血管性認知症患者において、アルツハイマー型認知症患者、および軽度認知障害を呈する患者と比較して有意に減少していることを明らかにしました。
本研究成果により、血液や脳脊髄液などの液性検体を用いたリキッドバイオプシー[3]において、診断指標となるバイオマーカー酵素を、高感度、かつ高い識別能で複数種を同時に定量することが可能となりました。今後、本技術は認知症をはじめとするさまざまな疾患のグループ分けに貢献し、次世代医療に資する分子診断装置の中核技術として発展することが期待されます。
本成果は、科学雑誌『Proceedings of the National Academy of Sciences(PNAS)』オンライン版(9月1日付:日本時間9月2日)に掲載されます。
バイオマーカーの1分子デジタルSERS計数法
背景
リキッドバイオプシーは、がんをはじめとする基礎疾患から感染症に至るまで、幅広い疾患を対象とした低侵襲な診断技術として、医療現場での応用が進んでいます。中でも酵素は、疾患の進行に応じて液性検体中の濃度が変動するため、古くから疾患診断の指標(バイオマーカー)として用いられてきました。従来の検査法では、酵素反応により産生される生成物と反応する呈色(発色)試薬の吸光度や、蛍光標識基質の蛍光強度の変化を測定することで、酵素濃度を定量し、その情報を基に疾患の有無や進行度が評価されます。これらの手法は現在も広く用いられており、極めて有用な技術です。
しかし、同様の反応を触媒する異なる酵素種を識別すること(高い識別能)や、複数種類の酵素を同時に定量すること(多項目測定)には制約がありました。一方、吸光度や蛍光強度に加えて、ラマン散乱光[4]の信号強度も酵素の定量に利用可能であり、特に高い分子識別能と多項目同時測定において優れた特性を示します。しかし、ラマン散乱光は微弱なため、従来法では検出感度が著しく低く、リキッドバイオプシーとしての臨床現場での実用化には大きな技術的障壁が存在していました。
研究手法と成果
今回、共同研究チームは、ラマン散乱光を利用する際の技術障壁を以下の方法で解決し、そのリキッドバイオプシーにおける有用性を確認しました。
1)バイオマーカー酵素の1分子デジタルSERS計数法の開発
今回、共同研究チームは、次世代医療に資するリキッドバイオプシーの実現を目指し、生体分子の1分子デジタル計数法[5]と、表面増強ラマン散乱(SERS)分光法を統合することで、液性検体中に含まれるバイオマーカー酵素を1分子レベルで識別し、複数種を同時に定量可能な「1分子デジタルSERS計数法」の開発に取り組みました。
開発に当たっては、従来から1分子デジタル計数法に広く用いられてきたマイクロチップを活用しました。まず、チップ上に高密度に集積された各微小試験管に、酵素1分子と基質を封入し、試験管内に酵素1分子からの生成物を濃縮させます。続いて、本研究で新たに開発したアプローチである、試験管の底面に固定化した銀ナノ粒子[6]凝集体を用い、その表面増強効果を活用して、生成物由来の微弱なラマン散乱光を安定的に最大100万倍増幅することに成功しました。
その結果、これまで検出が困難であった酵素1分子からの生成物由来の微弱な信号を、SERS信号として高い再現性と定量性をもって検出することが可能になりました。さらに、得られたSERS信号の強度を二値化("0"と"1"のデジタル化)することで、各微小試験管内における酵素1分子の存在の有無を判定できるようになり、"1"と判定されたSERS信号を示す試験管の数をカウントすることで、酵素の分子数を直接的に定量することが可能になりました。
実証実験として、本手法を用いて、健康診断項目として広く利用されているバイオマーカー酵素の一例であるアセチルコリンエステラーゼを標的としたところ、検出感度を10フェムトモーラー(fM:1fMは1000兆分の1モーラー)レベルまで向上させ、従来法と比較して約100倍の高感度化を達成しました(図1)。
図1 バイオマーカー酵素の1分子デジタルSERS計数法の仕組み
- (A)マイクロチップ内における酵素反応生成物のSERS信号発生メカニズム 微小試験管の底面には銀ナノ粒子の凝集体が固定化されている。生成物が銀ナノ粒子の表面に吸着すると、その表面増強効果によって、生成物由来のSERS信号が検出される。
- (B)酵素(アセチルコリンエステラーゼ)を標的とした1分子デジタルSERS計数法の実施例
一方、SERS信号の広範なスペクトル情報と空間分布の両方を取得する従来のラマン顕微鏡では、1回の1分子デジタル計数法の測定(おおよそ4.5万個の試験管の観察)に約4.5時間を要していました。臨床検査における迅速性へのニーズを踏まえ、計測時間の短縮は不可欠であることから、本研究では、生成物のSERS信号が、横軸をラマンシフト[7]、縦軸を信号強度に取るスペクトル上の特定の波数位置において、顕著な信号強度を示す特性に着目し、その波数位置における信号強度の空間分布を選択的に取得可能な広視野型の高速ラマン顕微鏡を開発しました(図2:特願2021-199642)。その結果、1分子デジタルSERS計数法におけるバイオマーカー酵素の検出感度を維持しながら、1回の計測時間を約8.5分にまで大幅に短縮することに成功し、リキッドバイオプシーに求められる高感度かつ高速な計測基盤を確立しました。
図2 1分子デジタルSERS計数法の計測時間短縮のための広視野型の高速ラマン顕微鏡の模式図(A)と写真(B)
広視野照明下で発生するSERS信号に対して、狭線幅のバンドパスフィルターを用いることで、目的の波長に対応する信号強度の空間分布を高速に取得することが可能となる。
2)類似する複数種バイオマーカー酵素の高度な識別・同時定量
SERS信号は分子構造のわずかな違いにも鋭敏に応答する特性を有していることから、この特性を活用し、類似した反応を触媒する複数種のバイオマーカー酵素の識別および同時定量を試みました。具体的には、従来の蛍光指標を用いた手法では識別および同時定量が困難であったアセチルコリンエステラーゼとブチリルコリンエステラーゼを標的とし、それぞれに特異的な2種類の基質を用いて、1分子デジタルSERS計数法を実施しました(図3)。
その結果、両酵素によって生成される生成物の分子構造のわずかな違いにより、SERS信号が最大となる波数位置に明確な差異が生じることが確認され、それらを指標とすることで、両酵素を識別しつつ、それぞれの分子数を高感度に定量することに成功しました。なお、現在の健康診断では、アセチルコリンエステラーゼとブチリルコリンエステラーゼ[2]を明確に区別することはできず、両方の総量が「コリンエステラーゼ」として定量され、診断に用いられています。本手法により、これらを個別に、かつ高感度に定量できるようになったことから、既存のバイオマーカー酵素を新たな視点から再評価し、より正確な診断へとつなげる可能性が示唆されました。
図3 類似した反応を触媒する複数種のバイオマーカー酵素の定量
- (A)SERS信号の特性を活用した複数種酵素の同時定量メカニズム 生成物の分子構造のわずかな違いにより、SERS信号の波長特性に明確な差異が生じる。この特性を活用することで、各生成物を識別し、対応する酵素を同時に定量することが可能となる。
- (B)アセチルコリンエステラーゼおよびブチリルコリンエステラーゼを対象とした実施例 それぞれの生成物は、波数(波長の逆数)が706cm-1および764cm-1において顕著なSERS信号を示すため、これらの波数における信号強度を指標とすることで、両酵素の同時定量に成功した。
3)認知症のグループ分け(層別化)を目的とした1分子デジタルSERS計数法の実証実験
アセチルコリンエステラーゼは、神経伝達物質であるアセチルコリンを加水分解する酵素であり、神経活動の制御において極めて重要な役割を担っています。近年、この酵素の異常な発現や活性の低下が神経変性疾患と関連することが報告されており、認知症の診断および層別化における有望なバイオマーカーとして注目を集めています。
そこで本研究では、本手法の臨床応用の可能性を検証するため、認知症患者から得られた臨床検体を用いて、1分子デジタルSERS計数法による認知症の層別化への適応可能性を実証的に評価しました。その結果、血管性認知症患者においては、アルツハイマー型認知症患者、および軽度認知障害を呈する患者と比較して、脳脊髄液中のアセチルコリンエステラーゼの分子数が有意に減少していることが明らかとなりました。また、臨床検査の性能指標である、ROC曲線[8]分析におけるAUC[8]は0.8であり、本手法が認知症の層別化に有用である可能性が示されました(図4)。
図4 脳脊髄液中のアセチルコリンエステラーゼの定量と認知症層別化の実証実験
- (A)臨床検体(脳脊髄液)を用いた1分子デジタルSERS計数法のワークフロー
- (B)脳脊髄液中のアセチルコリンエステラーゼの定量と認知症層別化の性能評価 アセチルコリンエステラーゼ含有量が、血管性認知症患者(VCD)の脳脊髄液で、アルツハイマー型認知症患者(AD)、および軽度認知障害を呈する患者(control)に対して有意に減少していることを見いだした。臨床検査の性能指標である、ROC曲線分析におけるAUCは0.8であり、層別化に有用となる可能性が示された。「*」有意水準5%での有意差あり、「**」有意水準1%での有意差あり、を表す。
今後の期待
本研究で開発した1分子デジタルSERS計数法は、液性検体に含まれる微量な酵素を高感度かつ高速に定量可能な革新的技術であり、リキッドバイオプシーの高度化に資する新たな計測基盤としての有用性が示されました。今後は、本手法の特長である高い分子識別能および同時多項目定量性を生かすとともに、SERSによって得られるスペクトル情報のパターン解析や機械学習との連携を通じて、より複雑な分子種の分類や未知のバイオマーカーの探索への応用が広がると考えられます。これにより、認知症をはじめとする神経変性疾患に加え、がん、代謝疾患、炎症性疾患など、さまざまな病態に関与するバイオマーカー酵素の高精度解析が可能となるなど、本技術の汎用(はんよう)性はさらに広がることが見込まれるとともに、次世代医療における分子診断装置の中核技術としての発展が期待されます。
補足説明
- 1.表面増強ラマン散乱(SERS)光金属ナノ構造などの近傍における光増幅効果によって、増強されたラマン散乱光([4]参照)。可視光に対しては、金や銀で形成されたナノ構造が広く用いられる。SERSはSurface-Enhanced Raman Scatteringの略。
- 2.アセチルコリンエステラーゼ、ブチリルコリンエステラーゼアセチルコリンエステラーゼは、神経伝達物質のアセチルコリンを加水分解する酵素。神経活動の制御に重要な役割を担う。ブチリルコリンエステラーゼは、アセチルコリンエステラーゼと機能のよく似た酵素。アセチルコリンを含む多様なコリンエステル類を加水分解する。主に肝臓で合成され、血清中に多く存在する。健康診断の肝機能検査に用いられる。
- 3.リキッドバイオプシー血液や尿、脳脊髄液などの体液を採取し、そこに含まれる遺伝子や酵素などを分析して疾患診断を行う技術。生体組織を採取する方法と比べて体への負担を抑えられる。
- 4.ラマン散乱光物質に光を照射した際にわずかに得られる微弱な散乱光。入射光とは波長(光の振動数)が異なり、この違いが物質中の分子の振動情報(分子組成の情報)を反映する。
- 5.1分子デジタル計数法微小な試験管に生体分子を1分子レベルで分画し、各試験管で生体分子が存在する場合に働く酵素反応によって増加する光信号の有無を二値化し、信号を1か0で計数して分子数を割り出す方法。一般に酵素反応の読み出しには蛍光指標が用いられる。
- 6.銀ナノ粒子粒径が数ナノメートル(nm、1nmは10億分の1メートル)から数百ナノメートル程度の微小な銀の微粒子。
- 7.ラマンシフトラマン散乱計測の際に分子に照射する入射光と、そこから得られる散乱光の、それぞれの波数(波長の逆数)の差を示す値。波数の表示には、単位長さを1cmとし、単位をcm-1とすることが多い。ラマンシフトを横軸に、信号強度を縦軸に取ったグラフをラマンスペクトルと呼ぶ。ラマンスペクトルにおいて、信号強度がピーク状に大きい値を取る波数位置は、分子の特定の振動情報を示す。このため、ラマンスペクトルに現れるピークの波数位置や形状は、分子の構造を敏感に反映する。
- 8.ROC曲線、AUC検査の性能を示す指標の感度(陽性のものを正しく陽性と判定した割合)を縦軸に、特異度(陰性のものを正しく陰性と判定した割合)を1から引いた値を横軸に取ってプロットしたグラフをROC曲線と呼ぶ。曲線の下側の面積を算出した値をAUCと呼び、検査の診断能力を示す指標に用いられる。値が1に近いほど診断能力が高い。ROCはReceiver Operating Characteristicの略。AUCはArea under the ROC Curveの略。
共同研究チーム
理化学研究所 開拓研究所 渡邉分子生理学研究室 主任研究員 渡邉力也(ワタナベ・リキヤ)
研究員 安藤 潤(アンドウ・ジュン)