「生まれた瞬間に命が…」ガザ地区の攻撃で犠牲のカメラマンが伝えたかったこと

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「ガザ地区への攻撃でジャーナリスト死亡」。テレビの速報ニュースに言葉を失った。私たちが直前まで連絡を取り合っていたカメラマンの名前が犠牲者として伝えられたからだ。無事を確認するために電話を鳴らすが、応答はない。その後、ガザ当局から正式に死亡が発表された。

病院での撮影をライフワークとし、特に立場の弱い子どもたちの被害を記録し続けた。彼が見つめ発信を続けてきたガザ地区とは、どんなものだったのか。同僚らの証言からその思いをたどった。 (ANNカイロ支局 松本拓也)

「いつでも準備はできている」 でも、取材は叶わなかった…

カイロ支局は、エジプトを拠点に中東・アフリカのニュースを取材している。我々が、パレスチナ人カメラマン・モハメド・サラマ氏と連絡を取りはじめたのは、冒頭のニュースが流れる数日前だった。イスラエルがパレスチナ・ガザ地区での外国メディアの取材を厳しく制限しているため、我々が現状を伝えるためには、現地のパレスチナ人ジャーナリストを拠り所にするしかない。深刻な飢餓の現状を伝えるため、支援物資の配給所に向かったきり行方が分からなくなった息子を探す家族の取材を彼に依頼していた。

「『ガザの現状を伝えるためなら』と、快く撮影に協力すると言ってくれた」。カイロ支局のスタッフが振り返る。8月25日の正午に再び詳しい話をしようと約束を交わした。 「準備が出来ているよ」。これが彼から送られてきた最後のメッセージになった。

サラマ氏とカイロ支局スタッフとのメッセ―ジ(2025年8月22日)

「ガザ南部の病院にイスラエル軍の攻撃があり犠牲者がでている」。25日の午前11時ごろ、支局のテレビで速報ニュースが流れ始める。続報が入り、犠牲者の中にジャーナリストが数人含まれているとリポーターが伝えた。

「うそだ…彼の名前がある。私が連絡を取り合っていたサラマ氏です」。スタッフの言葉に背筋が凍り付いた。すぐに電話をかけたが、応答はない。結局、この攻撃で少なくとも22人が死亡した。このうち5人はジャーナリストで、サラマ氏も含まれていた。

イスラエルはイスラム組織ハマスの拠点を攻撃したもので、「意図的に民間人を標的にしたわけではない」と主張したが、ジャーナリスト団体などから非難の声があがっている。

取材を一緒にすることは叶わなかったが、サラマ氏がカメラレンズの向こうに見ていたものは何だったのか。どんな思いを持って取材にあたっていたのか。気になって彼の同僚を探し、話を聞いた。

“ガザ南部最大のナセル病院”で医師や患者を記録…戦禍の中で婚約し待ち望んだ停戦

「サラマの取材拠点は病院で、特に子どもたちに心を寄せていた」。こう語るのは、同僚で中東の衛星テレビ局アルジャジーラの記者・ハーニ・アルシャーイル氏だ。サラマ氏はガザ地区南部で最大のナセル病院近くにテントを張り、医師や傷ついた患者たちを記録し続けていたと明かしてくれた。イスラエル軍に包囲され病院が機能を失った際も、その場に留まり撮影を続けたという。

彼が残した映像を見ることができた。病室で横たわる親に、しがみつき涙を流す子ども、ポリオに感染した赤ん坊、栄養失調で骨が浮き出た幼い子。サラマ氏はSNSに、こんな言葉を記している。

「ガザでは生まれた瞬間に、命が絶たれることもある。爆撃が命よりも強いからだ」

そんな悲惨な状況に目を背けず、子どもたちを記録し続けたのには訳があったとアルシャーイル氏が教えてくれた。「幼いころに母親を病気で亡くしたことから、自分と同じ悲しみを感じてほしくないとの思いが強かった。だから、可能な限り子どもたちの物語を記録し世界中に伝えることを心掛けていた」。

事態が悪化の一途をたどる中、2024年11月には一緒に病院で取材していた同僚の女性ジャーナリストと婚約をしている。この頃、ガザ地区に通じる検問所はイスラエルが掌握し、搬入される物資も多くはなかった。生活必需品の価格は大幅に高騰し、小麦粉は一連の戦闘が始まる前と比べて10倍以上にも上がっていた。そんな中で、パン1袋を婚約者に贈ったという。指輪の代わり、婚約の証だった。「2人は停戦を待ち望んでいた。戦闘が終結したら壮大な結婚式を挙げるんだといつも話していたよ」。

イスラエル軍がナセル病院を標的としたあの日、実は2度の攻撃が病院を襲っている。1度目の攻撃で被害に遭った病棟を取材しようと駆け付けたサラマ氏は、カメラを手に現状を撮影していた。そこに、2度目の攻撃があり命を落とした。「別れも告げずに逝ってしまった。でも、彼はこの病院で医師や患者と友情を育んだ。ここは彼の一部みたいなものだ」。アルシャーイル氏はその報道姿勢に誇りを感じている。

2023年10月にイスラム組織ハマスとの戦闘が始まって以降、イスラエルはガザ地区での取材を厳しく制限している。外国メディアは取材を許されたとしても、軍の同行で管理下に置かれ、撮影場所も限られてきた。イスラエルの最高裁判所は軍の管理下にないジャーナリストによる報道は、兵士を危険にさらす恐れがあるなどとして、立ち入りの制限は正当だと判断している。

こうした中、ネタニヤフ首相は8月10日の記者会見で、「外国人記者を受け入れるよう、軍に指示をしたばかりだ」と明かした。一方で、「安全上の問題もある」とし、取材の自由が確保されるかについては明言を避けた。ガザ地区で取材にあたり犠牲となったメディア関係者はこれまでに246人にのぼっている(2025年8月27日時点)。

それでも、「報道の自由連合」に加わる日本やイギリスなど27カ国は、戦闘地域でのジャーナリストが果たす役割は不可欠として、「報道機関の立ち入り」を認めるよう声明を発表した。そのうえで、ガザ地区で活動するジャーナリストの保護も強く求めた。

「彼の武器はニュースを伝えること…」ハマスとの繋がり疑われた亡き友に誓うこと

ハムダン氏(左)とシャリフ氏(右)(2025年7月撮影)

 「一緒に動画を撮ってくれよ。もし俺が殺されたら、君との記録が何も残らないから」。アルジャジーラのカメラマン・ハムダン・ダドゥー氏は、イスラエル軍に殺害された同僚と撮った最後の映像を大切にしている。戦闘が激化する中、記録を残そうとハムダン氏が頼み撮影したものだった。

一緒に映るのはアナス・シャリフ氏。アルジャジーラの記者としてガザ地区の現状を伝え続けてきたが、8月10日にイスラエル軍に標的とされ死亡した。理由はハマスに協力したためとされているが、イスラエル側から明確な証拠は示されていない。「彼は武器を持っていなかったし、戦闘にも参加していない。彼の武器はカメラを通じニュースを伝えることだけだった」。ハマスとの関与を明確に否定した。

ハムダン氏には忘れられない言葉がある。最後に会話を交わした時、シャリフ氏が力強く言ったこと。「伝え続けないといけない。我々は声なき人々の声なのだから」。亡き友の思いを胸に、決して立ち止まらないと誓った。

一連の戦闘は出口が見えないまま、間もなく2年を迎える。この間、ガザ地区では数えきれないほどの物語が生まれ、瓦礫と共に崩れ去っていったものもある。危険と隣り合わせと知りながらも、パレスチナ人ジャーナリストたちはその欠片を拾い集め、いまも記録し続けている。犠牲となった246人にも、それぞれの物語があったはずだ。サラマ氏の言葉が胸に刺さる。

「子どもたちは両親を失うだけではなく、貴重な子ども時代も失う。戦闘は悲しむ時間すら与えない。疲労・飢え・多くの愛する人に別れを告げる沈黙、ガザの空気がそれを感じさせる。私たちはその一瞬一瞬を生きている」

ガザ地区での直接的な取材が難しい我々にとっては、彼らの足跡を記事として残すことも使命だと強く感じた。

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