弟は何のために生まれてきたのか…朝ドラ「あんぱん」のモデル・やなせたかしが復員後に見た千尋の衝撃的な姿(プレジデントオンライン)
NHK朝ドラ「あんぱん」では、やなせたかしをモデルにした嵩とその弟・千尋の関係が描かれている。ライターの栗下直也さんは「アンパンマンには『本当の正義とは何か』という普遍的なメッセージがある。そのテーマのきっかけとなったのは、最愛の弟との別離だ」という――。 【写真】千尋が乗船した日本海軍の駆逐艦「呉竹」 ※本稿には6月12日放送回以降のネタバレを含みます。 ■やなせたかしの弟・千尋がかかえていた葛藤 2025年度前期のNHK連続テレビ小説「あんぱん」は、アンパンマンの生みの親・やなせたかしの波乱万丈の人生を描いている。その中でも彼の生き方に大きな影響を与えたのは弟・柳瀬千尋(ドラマでは柳井千尋、演・中沢元紀)との関係だと私は考えている。 「愛する国のために死ぬより……わしは愛する人のために生きたい」――。 NHK連続テレビ小説「あんぱん」第54話(6月12日放送)で、佐世保から駆逐艦に乗船する前に、千尋は、幼いころからのぶが好きだったと打ち明ける。 「わしは生きて帰れたら、もう誰にも遠慮はせん。今度こそ、のぶさんをつかまえる」 これまで内気で引っ込み思案な青年として描かれてきた千尋だが、戦争という過酷な運命を前にして見せた覚悟に、視聴者の多くが心を打たれたのではないだろうか。 幼い頃から病弱で、いつも兄の陰に隠れるようにして生きてきた千尋。自分に自信を持てず頼りない青年が震える声で思いを告げる姿には弱さの中にある強さの片鱗が見えてきた。 そんな内気だった青年、千尋とは――。 千尋の運命を語ることは、戦時下の若者たちが抱えていた葛藤を語ることでもある。
■10万人以上の日本兵が亡くなった海峡 千尋は幼少期から一転、中学では柔道二段、成績優秀な青年に成長する。旧制城東中学校(現追手前高校)を経て京都帝国大学法学部を繰り上げ卒業後、海軍予備学生として入隊する。久里浜の対潜学校で聴音技術を学ぶ。聴音とは、水中からの音を感知し、潜水艦や水雷艇などの敵艦艇の接近を早期に発見する役割を担う。 1944年5月に海軍少尉として任官し、幹部として主力艦などを護衛する駆逐艦「呉竹」への乗組を命じられる。 1944年、日本の戦況は絶望的だった。10月のレイテ沖海戦で連合艦隊は事実上壊滅し、フィリピンへの補給路は断たれた。それでも南方の石油などを運ぶため、日本は船団を次々に編成していた。千尋が乗船する呉竹はそうした輸送船を護衛する任務に就いた。 東シナ海から南シナ海まで、アメリカの艦隊が作戦行動中であったため、こうした船団の航海は決死の覚悟で臨まなければならなかった。 特に、台湾最南端の鵝鑾鼻(がらんび)岬とフィリピン領バタン(バシー)諸島の間に位置する約150キロのバシー海峡が危険極まりなかった。黒潮が流れるこの海域は、米潜水艦部隊からは「コンボイ・カレッジ(護送船団大学)」と呼ばれていた。それは輸送船の墓場であることを意味している。 太平洋戦争中、この海域で少なくとも10万人以上もの日本人将兵が犠牲となっている。これは東京大空襲や原爆投下に匹敵する規模の犠牲者数であるにもかかわらず、戦後長く「忘れられた悲劇」となっていた。 バシー海峡の悲劇を象徴する場所が、台湾最南端の高台に建つ潮音寺だ。この寺は1981年、「ヒ71船団」の玉津丸撃沈で12日間もの壮絶な漂流を生き延びた元日本兵・中嶋秀次氏(2013年、92歳で死去)が私財を投じて建立した。 ■生還した男の壮絶な体験 千尋の運命を語る前に、同じ時期に同じ海にいた中嶋氏の壮絶な体験を述べたい。 1944年8月19日午前4時50分、タンカーの護衛目的でフィリピン・マニラへ向かう途中、玉津丸は米軍の潜水艦「スペードフィッシュ」による魚雷攻撃を受けた。甲板に出た途端、時化の大波にさらわれ海中に引きずり込まれた中嶋氏は、偶然手に当たった盥(たらい)船のようなものを掴んで生き延びた。 筏に這い上がった将兵たちは、三角波が襲うたびに一人、また一人と波間に消えていった。最盛期で50人を超えていた生存者も、救助船が現れたものの置き去りにされ、絶望的な漂流が続いた。中嶋氏は後にこう詠んでいる。 「待ってよと 血を吐くこえで 呼ばいつつ 水掻く兵ら 涙ぬぐえず」 「もう見えぬ 船よばいつつ 筏こぐ 狂いしごとく 竹筏こぐ」 容赦なく照りつける8月の太陽、耐えきれず海水を飲み始める兵士たち、茶色い尿、そして次々と狂い死ぬ戦友たち。ある兵士は幻想の中で「湯をくれたご婦人方」を追いかけて夜の海に飛び込み、別の兵士は中嶋氏を妻と思い込みながら水を求めて息絶えた。 中嶋氏は、最後に残った朝鮮人軍属と死んだ兵の人を食べるかについて議論までしたという。その朝鮮人軍属も「中嶋さん、ありがとう」とつぶやきながら死んでいった。中嶋氏は極限状態で、なぜか涙を流しながら軍人勅諭を叫び続け、12日目にようやく救助された。 玉津丸は、輸送能力をはるかに超える4820名が乗船していたとされ、戦死者は全乗船者約99%の4755人だった。日本の戦没輸送船のなかでも特に犠牲者数が多い。その中で中嶋氏は「奇跡の生存者」といえる。