衰退する沖縄・辺野古新基地反対運動の今。ずさんな運営体制はなぜ放置されてきたのか? (週プレNEWS)
名護市辺野古の海で起きた転覆事故が、沖縄社会に大きな波紋を広げている。転覆したのは、地元の市民団体が基地建設の反対運動で使ってきた「抗議船」。乗船した17歳の女子高生を含む2人の命が失われるという重大な結果を招いたことで、「反基地運動」のあり方が問われている。源流と歴史をたどりながら、事故に揺れる運動の実情に迫った。 【地図】辺野古沖の転覆事故の経緯 * * * 【「反基地運動」の原点】 「お金、どこかからもらって活動してたんでしょう?」 那覇市内のあるバーで、旧知の経営者であるX氏が怪訝な表情を向けた。話題が3月16日、辺野古沖で発生した抗議船の転覆事故に及んだときのことだ。 修学旅行中の平和学習の一環で乗船していた同志社国際高校(京都府)の生徒18人を含む、21人を乗せた「平和丸」「不屈」の2隻が高波によって転覆し、船長と女子生徒の2人が亡くなった。 沖縄の平和運動について取材していた筆者に、X氏は何げなく問いかけた。那覇市生まれで50代のX氏。実業の世界に身を置く彼からすると、資金面での後ろ盾がなければ組織運営は難しいはず、と率直に感じたのだろう。 これまでの取材に基づき私は、「非営利の団体で、大きな資金源があるとは聞いていない」と応じた。ただ、こう答えた私自身にもモヤモヤは残った。 なぜあんな活動をしているのか? 誰の、なんの得になるのか――? 少なくない県民が抱くこうした疑問に答えず、「愛国無罪」ならぬ「反基地無罪」に近い無批判な立場で「辺野古新基地建設阻止」を掲げる反対派の活動を見てきたからだ。 抗議船の転覆について事故責任が問われている団体「ヘリ基地反対協議会(反対協)」の発足は、1997年にさかのぼる。沖縄の地元紙記者はこう振り返る。 「95年9月に発生した米兵による少女乱暴事件で、沖縄の基地負担に対する反発が全県に広がりました。それを受けて日米両政府は沖縄に関する特別行動委員会(SACO)を発足させ、複数の米軍施設の返還が決まった。その目玉が、普天間飛行場でした」 宜野湾市にある普天間飛行場は、沖縄戦中の45年、米軍が土地を接収して建設された。市街地のど真ん中に立地し、2003年11月、現地を視察したドナルド・ラムズフェルド米国防長官(当時)が「世界で一番危険な飛行場」と評したことで知られる。 「その移設先として浮上したのが、辺野古にある米海兵隊の基地、キャンプ・シュワブ。立地自治体の名護市で受け入れの是非を巡って住民投票が行なわれた97年に、『反対』の意思を示す市民や団体が集まってつくられた『名護市民投票推進協議会』が、反対協の前身です」 住民投票では「反対」が「賛成」を上回りながら、当時の市長が受け入れを表明したため、名称を変えて活動を続けてきた。「横紙破り」とも言える政治決定への反発が運動の原点だ。国と県、市の三者間での「辺野古」を巡るせめぎ合いが続いた。 この30年、国が計画推進のために進めてきたのは、露骨な〝現ナマ攻勢〟だった。受け入れ姿勢を示した歴代の保守系市長には「米軍再編交付金」などの新たな補助金を与え、「反対派」の稲嶺進市政下(10~18年)では再編交付金をストップさせるなど、国策への従順度で予算を差配する姿勢を明確にした。政府の辺野古政策が「アメとムチ」と呼ばれるゆえんである。 そんな中、反対派にとっての大きな転換点となったのが、翁長雄志県政(14~18年)の誕生だった。