鎮魂の祈りをともに 両陛下が7日に硫黄島ご訪問 叔父戦死の神職「一日も早く祖国へ」

出征時の郡山茂さん(宗英さん提供)

天皇、皇后両陛下が7日、先の大戦で日米両軍の激戦地となった硫黄島(東京都小笠原村)を訪問される。終戦から80年を迎えて惨禍を直接、経験した世代は高齢化しており、天皇陛下は今年の誕生日に際した会見で、記憶や教訓を次世代へ継承する重要性に言及された。硫黄島で叔父を亡くした宮城県仙台市の愛宕神社名誉宮司、郡山宗英(むねひで)さん(88)もその思いをともにしながら、鎮魂の祈りとともにご訪問を見守るつもりだ。

「両陛下のご慰霊を機に、激戦の中で亡くなったすべての人々に、改めて祈りをささげたい」

宗英さんは、そう思いをかみしめる。

硫黄島で戦死した叔父、郡山茂さんへの思いを語る郡山宗英さん=4月2日午後、仙台市の愛宕神社

宗英さんの叔父、郡山茂さん=享年(32)=は昭和17年の結婚直後に出征。郡山家は明治から代々、愛宕神社の宮司を務めており、宗英さんの父が18年に病死後、神職だった茂さんが跡を継ぐはずだった。

所属部隊や詳しい出征先が分からない中、昭和20年3月、大本営から硫黄島守備隊の玉砕が発表されてほどなく、茂さんの戦死が伝えられた。

茂さんの「最期」は判然としない。戦死したとされるのは「3月17日」。硫黄島の戦いを指揮した栗林忠道中将が総攻撃を決断したとされる日だ。ただ、死亡時刻は不明で、場所も「硫黄島方面」としか記載がなかった。届いた骨壺には遺骨ではなく、石が入っていた。

戦地から1度、茂さんからの手紙が、宗英さんの祖母宛てに届いたことがある。現地での様子について「すり鉢のような山」「暑い」などと書かれていたが、当時の機密事項に触れるのを避けるためか、それ以上の詳細はなかったという。「すり鉢のような山」が、硫黄島の戦いで要衝となった「摺鉢山」を指すと理解したのは、戦後しばらくしてからだった。

優しい叔父だったと記憶している。一番の思い出は出征前、動物園に連れて行ってくれたことだが、「残念なほど印象がない。それほど、一緒に過ごせた時間はわずかだった」。

先の大戦中、忘れられない出来事がある。

20年7月10日夜の「仙台空襲」で、小高い山の上にある愛宕神社の周辺にも数十発の焼夷(しょうい)弾が降り注いだ。翌朝、このうち数発が神社の社(やしろ)に着弾していたことが分かったが、いずれも不発だった。神社は「火難除け」の守り神が祭られており、「ご祭神に父や叔父、たくさんの力や思いに守られたのかもしれない」(宗英さん)。

「叔父の分まで国を守りたい」といったんは自衛官を志した宗英さんだが、神職養成所に通いながら夜間高校を卒業し、宮司を継いだ。現在も父、そして叔父の思いの詰まった神社を守り続けている。

戦後80年。硫黄島には茂さんを含め、いまだ約1万1千の日本兵が眠っているとされる。「日本政府は、懸命に戦った同胞の亡骸すべてを一日も早く、祖国に戻してほしい。そして孫、ひ孫の世代には、戦争の過酷な現実を知ってほしい」。両陛下のご訪問を前にした、宗英さんの願いだ。(中村昌史)

硫黄島の戦い 東京とサイパン島の中間に位置し、日米双方の戦略上の要衝だった硫黄島を巡る戦い。昭和20年2月19日に米軍が上陸を開始。日本軍は面積約22平方キロの島に全長約18キロの地下壕を構築。組織的な抗戦は36日間続いた。日本軍は守備隊約2万人の大多数が戦死か行方不明。米軍も2万8千人超が死傷する激戦となった。

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