ヒグマ事故 効果のない「クマよけスプレー」に専門家が警鐘 クマに遭遇「命を守る最終手段」とは

クマによる事故が増えている。ヒグマが生息する北海道も例外ではない。あたりをうかがうヒグマ=環境省提供 この記事の写真をすべて見る

 北海道・知床でヒグマ対策業務などを担う「知床財団」は8月21日、羅臼岳から男性が友人と下山中に母子グマに襲われ死亡した事故の調査速報を公表した。なぜ、同行者が所持していた「クマよけスプレー」で命が助からなかったのか。

【写真】自衛隊も使用「カウンターアソールト」と正しい噴射姿勢

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危険事例が増えていた

「やはり人身事故が起こってしまった、というのが正直な感想です。というのも、一歩間違えれば事故になりかねない危険事例が数多く報告されていましたから」

 そう語るのは2022年まで知床財団に15年間勤め、現在も道内でヒグマ対策の実務に従事する石名坂豪さんだ。「知床世界自然遺産地域のヒグマ管理に関する有識者会議」の資料によると、知床で発生した「興味本位でヒグマに近づく」などの人間側の問題行動に起因する危険事例は、17年度は4件だったが、24年度は70件と激増した。ヒグマの問題行動に起因する危険事例も17件報告された(24年度)。

「『クマは人間を恐れる』と、いまだよくいわれますが、少なくとも知床のクマの一部は人間をまったく脅威と思っていない。『人間は安全な動物』だと、ずっと学習してきたのですから」(石名坂さん、以下同)

観光客に見つめられるヒグマ=環境省提供

対策の基本は「クマと出会わないようにする」

 クマ対策の基本は、クマに自分の存在を知らせ、出合わないようにすることだ。最も一般的な手段は、チリンチリンと鳴る「クマよけ鈴」だろう。

 クマは鈴の音を聞いて、「ああ、人間が来たな」と心の準備ができるという。

「昔から一番多いのは『ばったり遭遇型の事故』です。心の準備なしにクマが人間と出合い、びっくりして『やばい、ワンパンチしてから逃げよう』となる。鈴を鳴らしていれば、多くの事故を防げる」

見通しの悪い場所の前では声

 鈴以外にも、ホイッスルを吹く、携帯ラジオをオンにして歩く、といった方法もある。

 石名坂さん自身は、見通しの悪い場所の手前では「ほーい! ほい、ほい!」と、大きな声を出している。最初の「ほーい」は周囲の人を驚かさないように少し小さな声で、次の「ほい」はクマに届くよう声を上げるのがコツだという。

「風や沢の音がある場合は声量を上げる。鈴であれば、手に持って強く振れば、音量が上がります」

クマよけスプレーの重要性

 だが、近年の知床では、音や声を出してもクマと遭遇してしまうケースは「珍しくない」。

「人間が来ても、逃げも隠れもせず、登山道の脇でハイマツの実を悠然と食べ、何時間も居座る。登山者にとっては迷惑な話ですが、そこに踏み込まなければ事故にはならない」

 もうひとつ、クマに遭遇する恐れのある場所に必携の品が、「カプサイシン」など強い刺激物を噴射してクマを撃退する「クマスプレー」だ。


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クマ撃退の実績の多いクマスプレー「カウンターアソールト」=石名坂豪さん提供

 羅臼岳のヒグマ事故を受け、8月21日に知床財団が出した調査速報によると、被害者は鈴を身に着けていた。しかし、クマスプレーの携行や使用に関する証拠は「確認されておらず、不明」だという。石名坂さんは、こう語る。

「クマからの攻撃を受けた場合、クマスプレーは事実上、一般の人がクマを追い返すことのできるほぼ唯一の道具です。ただし、実績のある製品を正しい距離で噴射する必要があります」

 応戦と救助を試みた友人は「クマスプレー」をうたった製品を所持していたが、ヒグマに対応した製品ではなかった。使用を試みたが、噴射できなかった。

警察・自衛隊で使用実績「カウンターアソールト」

 現在、国内では10種類以上のクマスプレーが販売されている。自治体や国立公園管理団体、警察、自衛隊などでも採用実績があるのが米国製の「カウンターアソールト」だ。価格は2万円前後(CA230)。カプサイシン1.73%。噴射距離は約9.6メートル。連続噴射時間は約7秒。

 クマスプレーの主成分は、唐辛子に含まれるカプサイシンで、人や動物の体内に入っても害はない。しかし、ガス状になったカプサイシンを浴びると、目や鼻、口、のどなどの粘膜に焼けるような痛みが出て、呼吸が困難になる。

「私が知る限り、クマの研究者の多くが30年以上前から国内販売されてきたカウンターアソールトを使用しています。国内でクマの撃退に成功した事例の多くは、アソールトによるものでしょう。私自身、クマ撃退に成功したのは全てこの製品です」

安価な粗悪品も目立つ

 石名坂さんがことさら商品名を強調するのには理由がある。近年、ネット販売を中心に1万円以下の安価で“クマスプレー”が売られるケースが目立ってきたからだ。

 そうした商品は、実際は護身用や防犯用の対人催涙スプレーである可能性が高く、被害者の友人が所持していた製品もそのひとつとみられる。

 クマを撃退するには、スプレーのカプサイシン濃度や噴射時間が重要だという。石名坂さんはこう話す。

「カプサイシンの濃度が薄く、噴射時間が短ければ、いざ、噴射しても効果がないか、弱い。最悪、命を奪われてしまう。そうしたクマスプレーが幅を利かせることを非常に危惧しています」


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クマスプレーの噴射姿勢=石名坂豪さん提供

 実績のある製品でも、正しく使う必要がある。カウンターアソールトの場合、4~5メートルの距離から使い切るまで噴射する。

 これまで石名坂さんはヒグマの「ブラフ(脅し)チャージ」と呼ばれる威嚇突進を「覚え切れないほどの回数」受けてきた。

クマと出合ったらスプレーの安全クリップを抜き、クマが突進してきたら距離5メートルを切った段階でスプレーを噴射します。それより手前でクマが止まれば、まだ『威嚇』ですから、噴射せずに、にらみ合いを続けながら、横目で足元を見つつ後退します」

 クマは下唇を小刻みに動かして、フーフー息をしながら石名坂さんをにらみ、「あっちに行け」とうながす。

「後退する際に転ぶと、それをきっかけに攻撃される可能性があるので、慎重に。クマスプレーはいつでも噴射できるようにしておきます」

練習用クマスプレーを噴射する様子=石名坂豪さん提供

クマスプレー「講習会」や「レンタル」も

 クマスプレーは使い方や使うタイミングが難しいため、石名坂さんは有料で使用法についての講習会(座学と練習用スプレーを用いた実習)も開いている。

 クマスプレーは飛行機に持ち込めないが、知床自然センター(斜里町)、木下小屋(同)、知床羅臼ビジターセンター(羅臼町)などで借りられる。料金は1100円/24時間(知床自然センター)。

「レンタル用に在庫している本数は限られるので、出発前にクマスプレーを購入して、陸送品として宿や宅配便の営業所に送る方法もあります」

最終手段は「戦う」ほかない

 クマスプレーを使用する前に不意に攻撃を受けたり、噴射しても攻撃が止まらない場合は、腹ばいになって顔や首を手とザックで守る防御姿勢をとる。

「ただし、防御姿勢はあくまでも、攻撃された際に致命傷を避ける手段であって、攻撃を受ける前から防御姿勢をとることはお勧めできません。身を小さくすることで『こいつは弱い』と思われ、かえって攻撃を招く危険性がある」

 クマが単なる攻撃から「捕食モード」に入ってしまい、防御姿勢をとっても攻撃がやまない場合は必死に反撃する以外に、「助かる可能性を高める方法はない」という。

「私はまだクマ相手にナイフを使用したことはありませんが、狩猟の際は、クマと戦う最終手段としてのナイフもライフル銃やクマスプレーと一緒に携行しています」


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ヒグマ
2025/08/24/ 10:35
4年前に撮影された今回の加害個体とされる母グマと同一個体の可能性が高いメス成獣=石名坂豪さん提供

 知床財団の調査速報によると、今回の事故では、母グマは子グマを守るために男性を攻撃したようだ。被害者がヒグマと遭遇したと推定される地点は、オホーツク海が望める岩峰(通称、560メートル岩峰)の南側だ。日当たりのよい岩峰付近には、アリの巣がたくさんあるという。

「夏になると、それまでエサにしてきた植物が硬くなるため、アリの巣を掘って、幼虫やさなぎを食べるクマがこの場所に集中する」

ハイマツの中を歩くヒグマ=環境省提供

 登山道はその脇にある。事故現場は岩峰の陰で木々が迫り見通しが悪い場所だった。

「登山者が母子グマに気づかずに接近したら、母グマは威嚇します。不用意に子グマに近づいてしまったら、母グマは攻撃してくるかもしれない。そういう状況に非常になりやすい場所でした」

 死亡事故発生以来、羅臼岳にいたる登山口は閉鎖され、再開のめどは立っていない。

 クマと遭遇する可能性がある場所を通る際は、万が一クマと鉢合わせした場合の対策を知っておきたい。

(AERA編集部・米倉昭仁)

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