アメリカで広がる「ケモフォビア(化学物質恐怖症)」とは?ナチュラル、ワクチン不信…背景には何が
心の中でこう囁いている人は、今や避けがたい恐怖の罠「ケモフォビア(化学物質恐怖症)」に陥っているかもしれない。
ケモフォビアは複雑な現象だが、端的に言えば「化学物質に対する不信感や恐怖」であり、「化学物質ゼロ」をうたう石鹸や「ナチュラル」なデオドラント、ワクチンへの不信感や、SNSで広がる根拠に乏しい種子油批判に対する恐怖など、生活の多くの場面で現れる。
多くの事柄と異なり、この問題は保守的なMAGA(Make America Great Again/アメリカを再び偉大に)支持者とリベラルな反MAGA派、両陣営の感情に訴えかけるが、それぞれの考えは大きく異なる。
免疫学者・微生物学者のアンドレア・ラブ氏はその始まりについてこう語る。
「多くの発端は左派の側にあった。正当な化学工業事故と、化学物質全般を混同した誤解から始まったんです」
科学の誤情報に対抗する組織ScienceUpFirstの共同創設者であるティモシー・コールフィールド氏は「左派にとっては、カウンターカルチャーとして“悪しき市場の力”に対抗する手段と見なされていた」と説明する。
しかし現在では右派に移行しつつあり、「今やほとんどが右派、少なくとも最も声が大きいのは右派だ」とコールフィールド氏は指摘する。
ウェルネス系インフルエンサーでアメリカの医務総監候補に挙がるケイシー・ミーンズ氏や、米保健福祉長官のロバート・F・ケネディ・ジュニア氏といった名前もそこに含まれる。
右派におけるケモフォビアは、研究されてきたワクチンや薬の不信や悪者化、規制を受ける医薬品とは違い監視されていない「自然」療法の推奨という形を取る、とラブ氏は説明する。
「左派では、有害な化学物質への曝露や“オーガニック=クリーン”という解釈、つまり『オーガニック食品しか食べられない』『遺伝子組み換え食品は避けるべき』といった恐怖をあおる形で注目される」とラブは述べる。
政治的立場を問わず、ケモフォビアは人々の家庭や食生活、思考に入り込み、さらにブランドスローガンやマーケティング、MAHA(Make America Healthy Again/アメリカを再び健康に)のような政治的メッセージにも組み込まれている。
ケモフォビアについて今知っておくべきことを紹介しよう。
「まず第一に、すべては化学物質です。人間の体は化学物質の袋のようなもの。こうした化学化合物がなければ私たちは存在できていない」とラブ氏は語る。
ケモフォビアは人々に「人工的に合成された物質は本質的に悪で、自然界にある“天然物質”は良い」と信じさせるが、それは事実ではないとラブ氏は強調する。
「自然」な牛脂を種子油の代替として称賛する現在の流行はその典型例である。
ラブ氏は「実験室で化学反応により合成された合成化学物質か、自然界に存在する物質かを体は区別できない」と話す。
つまり、ライムから得られるビタミンCと、実験室で作られたビタミンCを体は区別できず、重要なのは化学構造と摂取量だけだととラブ氏は説明する。
「この非合理的な化学物質への恐怖は、そもそも化学が生命そのものであることに反する。物質で構成されるすべては化学物質のネットワークでできている。人間も、ペットも、車も、家電も、家も、食べ物も例外ではない。化学物質そのものを恐れる理由はゼロです」とラブ氏は語った。
「ケモフォビアは、自然の物質は本質的に安全で有益で優れており、合成物質は悪く危険で劣っているという誤った信念『自然主義的誤謬(ごびゅう)』へアピールするために生まれた」とラブ氏は話す。
「この信念に正当性はまったくない」と断言するが、ケモフォビアと「自然への訴えの誤謬」は、疑似科学、反ワクチン運動、そしてMAHAのウェルネス産業の中心にある。
またその根底には「祖先の暮らしを美化する傾向」があるが、実際には祖先は劣悪な環境で暮らし、多くが痛みや苦しみと共に若く死んでいた、とラブ氏は指摘する。
「よりシンプルな時代へ戻ろう」というスローガンはMAHAとMAGA(Make America Great Again/アメリカを再び偉大に)の双方で使われる。
ロバート・F・ケネディ・ジュニア氏も、自身の叔父であるジョン・F・ケネディ大統領の時代の方がアメリカは健康的だったと繰り返し主張している。
これは複雑だが、事実ではない。米NPRによれば、当時は成人の3人に2人が慢性疾患で亡くなり、平均寿命は今より約10年短かった。
「ケモフォビアが非常に効果的なのは、人々のネガティブな感情を刺激するから」だとラブ氏は語る。
多くの人にとって、感情と事実を切り離すことは難しい。SNSで「ある成分が子どもを害する」と言われれば恐ろしくなり、その成分の使用をやめたくなる。「化粧品が有害だ」と聞いても同じだ。
栄養士でIgnite Nutrition代表のアンドレア・ハーディ氏は今注目されている果糖を例にとり、こう説明する。
「SNSで『果糖は肝臓で処理できないから避けるべき。果糖を完全に断ったら健康になった』と主張するインフルエンサーがいれば、子どものために最善を尽くしたい親は『果糖をやめなければ』と思い、清涼飲料のような超加工食品だけでなく果物までも家庭から排除してしまう。その結果、家庭では果物由来の食物繊維やビタミンが欠乏し、子どもは『果物は悪い』『果糖は悪い』という誤った考えを学び、乱れた食生活につながる恐れがある」
コールフィールド氏によれば、現代の私たちは「混沌とした情報環境」に生きており、あらゆる方向から事実らしき情報が押し寄せ、何を信じればよいか分からなくなる。
「現実には脳は単純さを求める。白黒はっきりさせたいのです」とハーディ氏は言う。
食べ物を「良い/悪い」と分類するのは、1日に何度も選択を迫られる私たちの脳にとって魅力的だ。そして誰もが「良い選択」をしたいと思っている。
私たちは「明かに良いサイン」や正しい選択への近道を探すことになり、そこで登場するのが「トクシンフリー(毒素ゼロ)」「ナチュラル」「クリーン」といった表示である。
ナッツバターの瓶やシャンプー、日焼け止めにこうした言葉が書かれていれば、「正しい選択」をしているように感じられる。しかし科学的根拠はないとコールフィールド氏は指摘する。
「こうした言葉はただの単純化で、SNS上では誤った栄養メッセージが拡散され、それは良くても間違い、最悪の場合は有害となります」とハーディは語った。
知らないうちにケモフォビアの罠に陥った人は少なくない。それは複雑で微妙であり、科学もときに分かりにくい。
さらに、ケモフォビアはブランド名や製品カテゴリーそのものに組み込まれている。「クリーンビューティー」はその代表例である。
化学物質への恐怖は、いまやマーケティングの手口になっている。「“化学物質ゼロ”と主張する商品を見かけるが、そんなものは存在しない。すべては化学物質でできているのだから」とラブ氏は強調する。
マーケットは「クリーン」「グルテンフリー」「非遺伝子組み換え」といった流行語に飛びつく。実際に、全粒粉ビスケットの「トリスケット」には「非遺伝子組み換え」のラベルが付き、コスメショップ「セフォラ」の店内には「クリーン」と分類された商品ラインがある。
「こうした表示は『その製品が“化学物質ゼロ”なら、ラベルがない方は危険で悪いに違いない』という誤った認識を生むのです」とラブ氏は説明する。
「私は公衆衛生の分野で働いているが、食品環境をすべての人にとって安全にしたいと願わない公衆衛生や農業、生物医学の研究者をひとりとして知らない」とコールフィールド氏は語る。
ケモフォビアに反対するからといって、食品や健康環境を改善したくないという意味ではないと彼は強調する。
「産業界や政府を常に監視し、改善を求めるべきだと思う。しかし同時に、リスクの性質やその大きさを現実的に理解する必要もある」と述べる。
食品環境や農業慣行がより安全になる余地は確かにあるが、その改善は「スローガンではなく科学に基づいて行うべき」とコールフィールド氏は言う。
しかし企業の貪欲さや資本主義が、そのような安全策の実現を妨げている。
「皮肉なことに、ケモフォビアが訴える懸念に対する答えは、より強力な政府規制、科学に基づいた規制の拡充だ。だがこの政治環境ではそれは起こらない。すでに見てきた通り、実現しない」とコールフィールド氏は語る。
「結局はスローガンとウェルネスのナンセンスに過ぎず、規制されていない未検証のサプリメント(実態は未試験の化学物質)の販売につながっている」とコールフィールド氏は指摘する。
さらに「化学物質を気にする」と主張する人々の多くが、そのような未規制のサプリメント販売で利益を得ているのだ、と彼は付け加える。
「化学物質への恐怖は大きな影響を及ぼし、その結果は何年も経ってから表れることになる」とハーディ氏は言う。
「公衆衛生を改善したいなら、食品中の特定の成分に注目したり、種子油を牛脂に置き換えることは解決策ではない。それはむしろ問題から目をそらす行為です」と指摘する。
食品添加物、種子油、“非クリーン”化粧品などが共通の敵として標的にされることで、実際には国民の健康にとって核心的な問題ではないものに注意が向けられてしまうとラブ氏は述べる。
ロバート・F・ケネディ・ジュニアは「アメリカ人はますます病気になっている」と主張する。確かに研究によれば、アメリカは他の欧米諸国より医療費をかけているにもかかわらず健康状態は悪い。しかし、それを特定の化粧品成分や食品に結びつけるのは単純化しすぎで、明らかに誤りだ。
「私たちは健康問題の根本を批判的に評価すべきだ。例えば、住宅の不平等や国民皆保険制度の欠如といった社会的・構造的な問題こそが背景にあり、単一の食品成分が原因ではない」とラブ氏は語る。
「こうした議論は、私たちや地域社会を本当に健康にするための現実的な行動から注意をそらしてしまう。これこそがMAHAの最大の問題です」とコールフィールド氏は話す。
「誰も食品添加物の大ファンではない。私も食品着色料を必死に擁護するつもりはない。しかし、そうした議論は本当に重要なことから気をそらす。公平性、正義、医療へのアクセス、教育、銃規制――これらこそが人口レベルで健康に違いをもたらすものです」とコールフィールド氏は強調する。
保守派であれリベラル派であれ、ケモフォビアに突き動かされる恐怖は危険だ。そして残念ながら、その広がりはかつてないほど深刻だとコールフィールド氏は警告する。
この恐怖心によって、人々は必要なワクチンを拒否し、「毒素が含まれている」と日焼け止めの使用をやめ、果糖を理由に果物を避けるようになっている。
「これは人を死に至らしめる。本当に深刻な問題だ。そして人類史上最悪の形で、信じられないような時代を迎えています」