消された「女の特攻」の記憶 戦勝国への「性接待」は何を残したか

1945年9月3日に毎日新聞1面に掲載された特殊慰安施設協会(RAA)の求人広告。業務内容の説明はなく「衣食住と高給を支給する」とある

 第二次世界大戦の終戦から、わずか2日後の1945年8月17日、日本政府は連合国軍の占領に備え、兵士の性の相手をする女性を集めた「慰安施設」を全国に整備する計画に着手した。

 政府は、占領軍が「一般の婦女子」に性的暴行に及ぶことを防ぐには、「性の防波堤」となる慰安施設が必要だと判断。数万人もの女性を動員し、「女の特攻」と呼んで性産業に従事させた。

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 国家規模で展開した戦勝国への「性接待」は、日本社会に何を残したのか。当時の記録や報道から、占領下の知られざる歴史をひもとく。

※同時公開の関連記事あります「日本の娘を守れ」政府、占領軍に“慰安所”提供 軍の性犯罪助長か

敗戦直後に「性の防波堤」議論

終戦処理のために1945年8月17日に東久邇内閣が組閣された。終戦後初めて開かれた第88回臨時帝国議会の本会議で、大戦の終結に至る経緯と今後の施政基本方針について演説する東久邇首相=1945年9月5日撮影

 大戦末期の1945年7月、米英中の連合国軍が日本に降伏を迫るポツダム宣言を発表した。鈴木貫太郎内閣のもと宣言受諾を決定。8月15日に終戦を迎え、鈴木内閣は総辞職した。

 8月17日に発足した東久邇稔彦内閣は、組閣初日の閣議で慰安施設の整備を議論。内務省は翌18日、全国の知事・警察長官宛てに「占領軍に対する性的慰安施設の急速な設営」を指示した。東京都では警視庁の指導の下、民間の接客業者7団体からなる特殊慰安施設協会(RAA)が設立され、新聞などを通じて女性の募集を始めた。

毎日新聞に「女性従業員」求人広告

 9月2日、日本は米ミズーリ艦上で降伏文書に調印し、占領下に入った。このニュースを伝える翌3日付毎日新聞1面の端には、RAAの求人広告が掲載されている。

ダンスホールで踊る占領軍の米兵と日本女性=1945年11月撮影

 <急告・特別女子従業員募集>と題し、業務内容の説明はない。<衣食住及高給支給>と条件のみ記載されている。

 RAAは8月下旬に東京・大森海岸に初めて慰安施設を開業。全国の警察も急ピッチで設営した。過酷な現場に置かれる女性に警察官が「女の特攻だ」と激励した――という記録も残る。

 一方で、政府は国民に「日本婦人としての自覚をもってみだりに外国軍人に隙(すき)を見せぬことが必要である」との通知を出した。本紙もたびたび女性に「自衛」を呼びかける記事を掲載している。

封印された「日米合作の性暴力」

 慰安施設の実態を長年研究してきた一橋大の平井和子客員研究員(70)は、占領軍に「差し出す女性」と「守るべき女性」に二分した占領下の実態を「日米合作の性暴力」と批判する。

 「政府が『慰安所』を提供したことは、占領軍に敗戦国の女性をモノのように扱うことを許し、かえって日本女性への性暴力を助長しました」

占領下の性暴力やジェンダー問題について研究する一橋大客員研究員の平井和子さん=静岡県三島市で2025年5月29日午後3時46分、西本紗保美撮影

 実際、当時の本紙も「米兵が通行人の女性を拉致する事件が増加」と報道している。

 組織が女性による性接待を強要・黙認する。一方で、女性に性暴力からの自衛を求める――。戦後80年を経た今も、日本にはこうした風潮が残る。

 「『女の特攻』とされた女性たちは戦後、公的な記憶から消されてきました。国家による性暴力の歴史は、長らく封印されてきたのです」【待鳥航志】

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