当初は撤去予定だった「太陽の塔」はなぜ残ったのか…万博のシンボル350億円の「大屋根リング」に感じる残念さ 1970年からわれわれは本当に「進歩」したのか

1970年の大阪万博のシンボルとして岡本太郎が手掛けた太陽の塔は、当初は万博終了後に撤去される予定だった。ライターの栗下直也さんは「当時の人々が万博のシンボルに抱いていた想いは、今回の大阪万博のシンボルへの想いとは決定的に異なる」という――。(後編/全2回)

太陽の塔(写真=663highland/CC-BY-SA-3.0/Wikimedia Commons

前編から続く)

1970年大阪万博が計画された当初、すべてのパビリオンは万博閉幕後6カ月以内に出展者が解体するという条件で建設された。これは決して特殊な条件ではなく、世界の博覧会における標準的な慣行だった。そのため、大半の構造物は長期的な耐久性を考慮して設計されていなかった。

1970年9月13日に万博が終了すると、解体作業が開始された。数日のうちに、北欧パビリオンが撤去され、続いてUFO(日立グループパビリオン)、光の木(スイスパビリオン)、七重の塔(古河パビリオン)、恐竜(オーストラリアパビリオン)など多くの象徴的な構造物が解体された。

例外的に万博開催前から保存が決まっていた構造物もあった。日本館、万博ホール、万博美術館(旧国立国際美術館)、日本庭園、日本民芸館、そして日本鉄鋼連盟が建設した鉄鋼館などだ。

一方、太陽の塔は当初、保存される構造物のリストには含まれていなかった。壊すわけでも保存するわけでもない「保留状態」にあった。

太陽の塔を取り巻く環境は1972年7月に一変する。日本万国博覧会記念協会(日本万国博覧会協会から再編された組織)が記念公園の第一段階開発計画に太陽の塔を含め、1976年度(昭和51年度)に解体する予定を立てたのだ。維持費が高すぎるという理由だったが、太陽の塔をダイナマイトで爆破して撤去するという具体策さえ計画されていた。

事態を一変させた高校生による手紙

1974年、大阪市の高校生だった藤井秀雄さんは、新聞で太陽の塔の撤去計画を知り、日本万国博覧会協会評議委員会に一通の手紙を送った。「夢と希望を与えてくれた太陽の塔を壊さないでほしい」。この手紙を契機に、保存を求める署名活動が広がり、翌75年に永久保存が決定する。

この高校生の手紙がどれほど大きな影響力を持っていたかは、永久保存が決定した際に新聞記者が藤井さんの家をインタビューに訪れた事実からも窺える。一人の若者の熱意が社会を動かした象徴的な事例となった。

高度経済成長期の象徴的な建造物である太陽の塔の保存を訴えたのが一人の高校生だったことは、極めて示唆的である。当時を知る世代にとって、太陽の塔は単なるモニュメント以上の存在だったことを物語る。

みなさんの周りにもいまだに1970年の万博を熱く語る人はいるはずだ。それは万博が単なる博覧会ではなく、日本の「未来」そのものだったからなのだ。


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70年の万博の開催前、美術評論家たちから「グロテスク」「幼稚」と批判された太陽の塔は、開催後、誰もが認める万博のシンボルとなった。さらに興味深いのは、岡本が亡くなった1996年以降に太陽の塔への関心が再燃したことだ。

20世紀末、日本は沈んでいた。70、80年代のイケイケの空気は一切なく、バブルも崩壊、「どうにかなるはず」というかすかな期待は急速に萎んでいた。トンネルの向こう側が見えない中、人々は進歩や合理性よりも、人間の本質に迫った岡本に救いを求めたのかもしれない。

2018年に太陽の塔の内部が一般公開されると、予約は数カ月先まで埋まるほどの人気を集めた。耐震改修工事に約13億8800万円の費用を投じた大阪府の決断は、市民の強い支持を得た。2020年には国の登録有形文化財にも登録された。大阪府民を中心に、次は世界遺産登録という新たな夢も広がっている。

夜になると光る「太陽の塔」は、現在も「黄金の顔」が照らされ、大迫力の姿を見せている。これも万博開催中から実施されていたライトアップだ。塔の内部空間は現在も一般公開されている。4基のエスカレーターで昇り、生命の樹の周囲を見学できるようになっている。

「大屋根リング」はどうなるのか

一方、2025年大阪・関西万博に目を向けると、新たなシンボルとして計画された「リング」は、一部を除き完成後に撤去される運命にある。(日本国際博覧会協会は6月にも方針を決めると発表している)

写真=時事通信フォト

大阪・関西万博の開幕を前に行われた、来場者を入れたリハーサル「テストラン」。世界最大級の木造建築「大屋根リング」=2025年4月5日、大阪市此花区

円周2キロ、高さ最大20メートルの世界最大級の木造建築物であるリングは、会場を環状に囲み、「多様でありながら、ひとつ」という万博の理念を具現化した先進的な試みだ。

下部は来場者の動線となり、上部からは会場全体や大阪湾を一望できる構造だが、当初の計画では全面撤去が基本路線だった。

建設費用が350億円にのぼるリングは、「世界一高い日傘」と批判されるなど、国会でも論争の的となった。こうした批判を受け、吉村洋文大阪府知事は「圧倒的な存在感がある。来場者が目にすれば現地で残したいという意見が出てくるだろう」と述べ、一部現地保存への転換を支持した。

万博協会は2024年1月に活用方法を公募し、「庁舎の門衛所」「高速道路の料金ゲート」「公園と駅をつなぐ歩行者デッキ」などの提案が寄せられたが、基本的にはリングの大部分は撤去され、一部のみが保存される見通しだ。


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もちろん、藤井さんの手紙だけで存続が決まったわけではない。塔の保存において最も影響力のあったのは何よりも岡本太郎の熱意だ。1974年12月、第二回万博施設処理委員会会議において、岡本は自身の作品の存続を心から訴えた。

この会議の議事録には、岡本自身の作品に対する発言が残っている。

「制作中は永遠に残ることなど一瞬も考えていなかったが、いったん完成すると私から離れてみんなのものになった」 「外国人も自国のパビリオンを最初に言及した後、必ず太陽の塔について話した。外国人にも印象を残した」

過去の作品にこだわらない岡本にしては珍しい内容であり、それだけ太陽の塔へのこだわりが垣間見える。

岡本個人の擁護活動に加えて、塔を救うための草の根運動も起こった。京都府宇治市や東京で解体反対の署名活動が組織された。これらの市民による支援表明は、岡本が示唆したように、塔が実際に「みんなのもの」になった。

多くの日本国民が保存したいと願う愛される文化的アイコンになったことを証明した。

岡本の熱心な訴えと市民運動を受け、1975年3月、太陽の塔を保存する決定が正式に確定した。

万博記念公園(写真=+-/CC-BY-SA-3.0-migrated-with-disclaimers/Wikimedia Commons

太陽の塔のデザインの意味

太陽の塔は異様だ。生命の樹が下から上まで伸びる。手はあるが足はないものの、根を張って大地にしっかり立っている。万博という国民的行事によって、大阪の地にとどまらず、世界の人々の記憶にも広く深く印象付けられた建物は、保存されたことで時空を超える存在となった。

太陽の塔は、その誕生の瞬間から物議を醸した作品だった。建築家・丹下健三が設計した未来的な大屋根を、岡本太郎が「ボカン!と打ち破りたい」と言い出したのが誕生のきっかけだった。その結果、大屋根を突き抜ける高さ70メートルの巨大な塔が生まれた。

鉄骨・鉄筋コンクリート造で、表面は白色板金で覆われている。岡本は「太陽の塔は建築ではなく、彫刻だ」と語っていた。塔には正面の「黒い太陽」、背面の「太陽の裏」、頂上の「黄金の顔」の三つの顔があり、それぞれ現在、過去、未来を象徴していた。

丹下健三のデザインした大屋根を貫く形で、原始的な造形の太陽の塔がそびえるのは、進歩に対するアンチテーゼであることは広く知られる。

岡本が考えたのは対極の思想だった。万博のテーマ「人類の進歩と調和」を踏まえ、進歩と伝統、近代と原始、理性と本能……。相反するものの衝突から生まれる新たな価値の創造こそが岡本の狙いだった。


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太陽の塔も世間からの批判を受けての妥協策としての保存だったが、リングは現時点ですでに大半は撤去予定のため、太陽の塔のように完全な形で後世に伝わる「レガシー」になる可能性は極めて小さい。

万博といえば1889年のパリ万博のために建設されたエッフェル塔も当初は批判を浴びたが、今や世界的な観光名所として愛され、2024年のパリ五輪でも開会式のフィナーレを飾った。万博の建造物は「一過性の演出」と捉えると物議をかもすが、「物語の継承」と捉えられれば歴史的建造物にもなりうる。

万博という巨大イベントを今の時代にどうとらえるべきなのかを私たちはもっと議論すべきではなかったのではないだろうか。

写真=iStock.com/winhorse

※写真はイメージです

2025年の大阪・関西万博の前評判は決して高くない。「いまさら万博かよ」「万博は新しい時代の始まりというが、日本の終わりの始まりではないの?」という皮肉すら聞こえてくる。

国民の熱狂とは程遠く、万博のテーマが何であるのかも知らない人が大半ではないだろうか。ちなみに、今回のテーマは「いのち輝く未来社会のデザイン」となっている。

今回の万博は、1970年の「人類の進歩と調和」から時を経て、新たな調和のかたちを模索する。会場構成は従来のようなゾーニングを廃し、異なる大小のパビリオンが「亀の甲羅のように」つながる斬新な設計が予定されている。

岡本太郎が遺した難題

70年当時、岡本は「日本人は勤勉だが『ベラボウさ』に欠ける」と指摘し、「底抜けなおおらかさ、失敗したって面白いじゃないかというくらい、スットン狂にぬけぬけした魅力を発揮してみたい」と語った。

この言葉は、当時のみならず令和の日本にも当てはまる。効率や利便性を追求するデジタル社会において、私たちは「ベラボウさ」を以前よりも失っていないだろうか。今回の万博では、サイバー空間と現実空間が融合した世界が展開される予定だ。そこでは、昭和とは違う「進歩と調和の新たな対話」が求められるだろうが、果たして来場者にどこまで響くのだろうか。

太陽の塔は、高度経済成長期の日本人の夢を体現すると同時に、その「対極」としての警告を発していた。そして、それは今なお私たちに問いかけ続けている。技術の進歩と人間性の調和、効率と創造性、リアルとバーチャル……。現代における「対極思想」の意味を改めて考える必要があるとの専門家からの指摘は多い。

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