カウンセラーは何もしてくれないと思う人へ…東畑開人が答える「カウンセリング」で一体何が行われているか(東畑 開人)

東畑開人さんの『カウンセリングとは何か 変化するということ』(講談社現代新書)が発売から2週間で7万部を突破しました。カウンセリングの現場で何が行われているのかを明らかにすることが、「心とは何か」「生きるとは何か」「社会とは何か」を知ることにもつながっていく一冊です。

東畑さんに、臨床心理士としての20年間の集大成とも言える本書について、お話をうかがいました。インタビュー(1)後編では、本を書いた動機や、カウンセリングに対するよくある誤解、カウンセラーが具体的に何をしているのかを聞きました。

(取材・構成、文/小沼理)

——本書では、カウンセリングを「謎解き」「作戦会議」「冒険」、そしてその「終わり」の4つに分け、具体的に何が行われているのかを順に解説しています。 

東畑 「謎解きとしてのカウンセリング」は専門用語では「アセスメント」と言われる、心の問題を理解しメカニズムを解き明かす作業。インテーク面接、医療で言うところの初診のタイミングで集中的に行うものですね。

この本では「生活」と「人生」をあえて分けて考えてみようとしました。「作戦会議としてのカウンセリング」は、現実的な問題に対処し、生活の危機を乗り越えるためのもの。いわば「いかに生き延びるか」への取り組みです。一方、「冒険としてのカウンセリング」は人生の行き詰まりを乗り越えるもの。つまり「いかに生きるか」への取り組みです。「生活」と「人生」という切り口で、カウンセリングにできることを大きく2つに分けて考えています。

そして最後に、「終わる」という心のプロセスが「変化するということ」の中核に存在していることを示しています。

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——「謎解き」では、カウンセラーが人の悩みをどのように整理しているかが解説されていました。自分や誰かの悩みを聞く上でも、この整理は参考になりそうです。「作戦会議」では、カウンセラーがかなり具体的にユーザーの生活に働きかけている様子が描かれています。

東畑 カウンセラーは話を聞く専門家だと思われていますが、必要なおせっかいをちゃんとする仕事でもあるんですよね。アクティブにいろんな介入をやっていることが伝わるといいなと思って書きました。

読んでいただけるとわかるのですが、「作戦会議」で提案するのは「休んだほうがいい」「生活が立ち行かなくならないように、まずはお金をどうにかできないか一緒に考えよう」といった常識的なことも多いです。こうした普通のこと、友達の相談に乗るときと変わらない、日常生活に直接役立つような働きかけを行っています。

では、カウンセラーの専門性はどこにあるのか。それは、何をどのタイミングで伝え、介入するかの判断にあります。

たとえば、借金がある人が親に援助してもらえないか頼んでみる場合、カウンセラーじゃなくても同席して一緒に頼むことはできるでしょう。ただ、それを提案し実行するには、ユーザーの置かれている状況やそのときの心情をよく理解する必要がある。下手すると、余計に本人を追い詰めるときもあるわけですから。ですから、カウンセリングはふぐ料理みたいだと思うんです。闇雲にカウンセリングを提供すると毒になる。でも、丁寧に問題を切り分け、見分けて、必要な部位を提供するならば、カウンセリングは栄養にもなる。このふぐ料理的な判断をするために専門知があり、プロのカウンセラーがいるわけです。

——カウンセリングに行くべきか迷っている人にも役立ちそうです。

東畑 カウンセリングで何が行われているかがわからないと、何を期待していいのかもわからないですよね。

心が困ったとき、カウンセラーにはこういうことができるんだという一つのスタンダードを示したいと考えていました。カウンセリング文化やユーザーのリテラシーをアップデートしたいというのが、この本の狙いの一つです。

時々、「カウンセリングに行ってみたけど何もしてくれなかった」という声を聞きます。そういうときに、カウンセラーに「何かしてください」と要求していいと思うんですね。もちろんできることとできないこととあるにしても、それ自体についての説明が得られることはとても大事なことです。それが真剣な対話というものだと思います。

でも、それが難しい現状があります。その理由の一つが、カウンセラーが何を提供できるのかに対する社会的な合意がないことだと思っています。カウンセリングで何ができるのかがわかっていれば、「こういうことを要求していいんだ」と思えますよね。カウンセラーが役割を果たしていないと感じたら、率直に伝えることができるようになる。そこにはカウンセラーの意図があるかもしれない。すると、話をすることで、お互いへの理解が深まって、カウンセリングが前に進んでいくこともあるでしょう。カウンセラーをふしぎの国の魔法使いだと思っていたら、こうした話し合いはできない。

その意味でもやっぱり、心を魔術的なものにせず、常識の次元で語る必要があると考えていました。心に対しては、一方に多大な期待をする「心が変われば何でもできる万能派」がいて、もう一方に過剰な価値下げをする「行動あるのみで心なんかどうでもいい派」がいます。でも、両方違うんだと。常識的に、心にはできることとできないことがあるというのが僕のスタンスです。

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