東京大空襲とは 1945年3月10日発生 なぜ約10万の遺骨の名前がわからず 遺族に返還されないのか?
1945年3月10日の東京大空襲。
犠牲者は、推定で10万人以上にのぼりました。
実は80年たっても犠牲者の遺骨のほとんどは名前がわかっておらず、今も、都内の施設に安置されています。
いったいなぜ?そのカギとなる資料を独自に入手しました。
配信期間 3/7(金) 午後7:30から3/14(金) 午後7:57
(※戦争の実態を伝えるため遺体の画像を掲載しています。)
河合節子さん(85歳)は、東京大空襲で母親と2人の弟を亡くしました。
1945年3月10日未明、東京が大規模な空襲に見舞われました。大量の焼夷弾(しょういだん)が投下され、木造家屋が密集した下町では大火災が発生しました。
東京が空襲を受けたエリアを示した地図です。
河合さんの家族が住んでいたのは現在の江東区。3月10日の大空襲で甚大な被害が出ました。
家族で生き残ったのは疎開していた河合さん。そして炎の中やけどを負いながら一命を取り留めた父親でした。後に父親は亡くなった3人の最後の様子を語ったといいます。
河合さんの父親河合節子さん「背中に下の子をおんぶしている母親が後ろからついてくるはずだった。防空ごうを出ようとしたときに、父が抱いていた上の子を落としてしまったんですって。もう1回抱き直そうとしたんだけど、いなかった。それきりになってしまった。後ろからついてくるはずだった母親も行方がわからなくなってしまった」
河合さんの母親と2人の弟の遺骨は、今も見つかっていません。納骨されていない墓で、弔いを続けています。
河合節子さん「お寺さんに、遺骨はないけれどお墓を作ってほしいとお願いしました。架空の人を弔うわけじゃないですよね。だけど、遺骨がないというのはそういうことなんですよね」
非常手段だった「仮埋葬」とは
なぜ犠牲者の遺骨は遺族の元に返っていないのか。
空襲直後の光景を市民が描いた絵です。
土田宏「原公園の空襲犠牲者仮埋葬」大量の遺体が公園に掘られた穴に埋められています。描かれているのは当時、東京都が行っていた「仮埋葬」です。
都は1944年、空襲の被害を想定し、犠牲者を埋葬する計画を立てていました。
本来は遺体を火葬し身元がわかる遺骨は遺族に返すことになっていました。
しかし、想定をはるかに超える犠牲者が出たため、いったん土に埋める「仮埋葬」という非常手段がとられたのです。
田熊貞三「空襲後の緑町公園 家族を捜す人々」「仮埋葬」の様子を証言した都の元職員の音声が見つかりました。当時の混乱した様子を語っています。
元東京都職員の音声「下町の3月10日の場合は、軍隊が出てきて、だーっと、もう地上からこれを早く隠せというので。ばーっと材木みたいに扱うから。50体だな、30体だな、そういう程度ですよ」
元職員たちが当時を振り返った記録も残されていました。
大半の犠牲者の身元が特定できないまま仮埋葬せざるをえなかったと証言しています。
仮埋葬に関わった東京都職員(当時)「三月十日の経験で全部滅茶々々(めちゃめちゃ)になってしまい、殆(ほと)んど九分九厘までが仮埋葬されたということです。総体の犠牲数もつかめなかった理由であり、その人のものかどうか今でもはっきりしない理由となったわけです」
『戦災殃死者改葬事業始末記』東京都慰霊協会より
独自の資料から想定外の事態が明らかに
1945年8月、終戦。東京の地下には空襲で犠牲になった人のほとんどが埋められたままでした。
仮埋葬地が行われた場所を、都が記録していた情報を元に地図で可視化しました。
その数、71か所。最も多かったのは大空襲の被害が甚大だった江東区。次いで墨田区、台東区。さらに、その後の空襲で西は杉並区、南は大田区にまで広がっていました。
犠牲者が埋められた仮埋葬地。その実像を明らかにする、貴重な資料を今回、独自に入手しました。
戦後、仮埋葬地を撮影した57枚の写真です。
上野公園(東京・台東区)東京、台東区の上野公園。およそ8000人が埋葬されたと記録に残っています。
西大久保公園(東京・新宿区)新宿区の西大久保公園。住宅地の近くにあったことが確認できます。
私たちは空襲や写真の専門家とともに仮埋葬地を分析。
左から、青木さん、石橋さん、山本さん、小原さん写真を分析した専門家 青木哲夫さん(東京大空襲・戦災資料センター主任研究員)石橋星志さん(すみだ郷土文化資料館学芸員)小原真史さん(東京工芸大学芸術学部写真学科准教授)
山本唯人さん(東京大空襲・戦災資料センター主任研究員)
すると想定外の事態が起きていたことがわかりました。
名前が不明と書かれた墓標や、氏名が書かれたものが存在していました。
そして複数の写真で確認されたのが大きな墓標でした。身元がわからない複数の遺体が一緒に埋葬された場所にたてられていたとみられます。
写真を分析した専門家「まったく新しく知ったのが大墓標。多くの現場にこの大きな、背の高い墓標がほぼあるんですね」「供養したいと考えていたのでしょう」
「供養したいという気持ちや行為は、止めようがないですよね」
仮埋葬は本来、遺体を掘り返して火葬し遺族に返す計画でした。しかし仮埋葬地は、遺族にとって墓地のような存在になっていたのです。
戦後、仮埋葬地に通い続けていた加藤威郎さん(89歳)です。
空襲で亡くした両親そして2人の妹が眠る大切な場所と感じていました。
加藤威郎さん「錦糸公園にあったので、よく日本橋から歩いて行っていましたよ、お参りに。当時、進駐軍の兵隊がたくさんいて、チョコレートやチューインガムをくれたんです。それ持っていって、お墓掘ってそれ埋めて供えました」
妹が生前、送ってくれた手紙を今も大切に残しています。
「兄ちゃん お元気ですか 孝子も元気です 孝子はもうじき学校へ行きます 今度お写真を写したらすぐ送るわよ」
加藤さんの妹の手紙より(現代かなづかいで表記しています)
加藤威郎さん「妹は学校へ行くのを楽しみにしてね、ランドセルを枕元に置いてね、毎日寝ていた。ほんとにかわいそうで」
終戦から3年後、仮埋葬地である変化が起きます。
仮埋葬地のひとつ、墨田区の原公園で、当時を記憶する男性がいました。
住民「掘り出したときはかなり大変なにおいで。それはもう…」
今回入手した写真にも、男性が見たのと同じ光景が写っていました。遺体を掘り起こし、火葬する「改葬」です。
仮埋葬地を手作業で掘り、遺骨を集め、棺に納める様子が写っています。
都の元職員たちの証言によると、遺体の多くが腐敗し、身元が特定できない状況でした。
改葬に関わった東京都職員(当時)「個別屍体は一体づつ埋葬されているので、割合によかったですが、合葬屍体は大きな穴をひとつ掘ってそん中にバーッと納れたんで(中略)腐って一緒になってしまっているので、一体づつ別けなければ、何体あるのかわからないわけです」
『戦災殃死者改葬事業始末記』東京都慰霊協会より
さらに改葬は遺族に知らせずに進めたことも明かされていました。
改葬に関わった東京都職員(当時)「遺族には絶体知らせず、すんでからあとに通知する事になっていたんです(中略)知らせると大勢の人がやって来て仕事に差支えるので無断でやるんです」
『戦災殃死者改葬事業始末記』東京都慰霊協会より
今回、入手した写真からも周りを囲って改葬が行われていたことがわかります。
東京大空襲・戦災資料センター 山本唯人主任研究員「見えないようにヨシズで囲ってやる。何がヨシズの向こう側で起きているのかは分からない状況になる。だから、東京の空襲があったとは聞いているけれども、そこで亡くなった人たちがどうなったのかということが、やはりあまり知られずに戦後が過ぎていくことのひとつの原因にもなったのではないかと思います」
改葬は、1951年に終了。名前が分かったのは7156(都内戦災死没者総計表より)。そのほかはすべて名前がわからない遺骨となったのです。
戦災者慰霊塔が建立されなかった理由とは
遺族の元に返ることが出来なかった遺骨。その保管先が、墨田区にあります。
今回、特別に撮影が許された、東京都慰霊堂の一室。
棚に安置された大きな骨壺がすべて名前のわからない遺骨です。
実は、この施設はもともと関東大震災の犠牲者の遺骨を納める場所でした。そこに、空襲犠牲者の遺骨も一緒に安置されているのです。
関東大震災の犠牲者の遺骨その理由をうかがわせる東京都の内部文書が残されています。
遺族から「戦災者慰霊塔」を建立したいという要望があったものの、都として応じない方針が書かれています。
その理由として挙げているのが、GHQの指導方針。
「日本國民に戦争を忘れさせたいのである」
「戦災者慰霊塔建立について」(東京都文書 昭和22年渉外関係)より
GHQの意向をこのように都は受け止めていたのです。
占領期の公文書を研究する神戸大学の長志珠絵教授は、戦後の復興が進む中、都はこの当時、空襲の犠牲者の存在を後世に語り残すことは意識していなかったと指摘します。
神戸大学大学院 国際文化学研究科 長志珠絵教授「民間人の死者、大量死者に対して、どのような記憶を行政の側が次の時代に向けて作っていくのかということの意識は、やはりこの段階であまり、もしくはほとんどなかったのではないかと私自身は思います。戦災の死というのは、いろんな形で可視化していく必要があるという風に思います」
母親と2人の弟を亡くし、遺骨が見つかっていない河合節子さんは、空襲犠牲者の遺骨を納める専用の施設がいまだ作られていないことに割り切れない思いを抱え続けています。
河合節子さん「あそこは関東大震災の記念堂だと認識していたわけですね。そこに戦災の遺骨も納められているということに対してすごく矛盾を感じています。その前で手を合わせることはします。だけど、ここぞというのが、分からないんですよ」
1952年、日本は主権を回復。
焼け野原だった東京は都市の開発が急速に進んでいきます。
こうした中、空襲犠牲者の遺骨の問題はまだ続いていたことが見えてきました。
江東区の妙久寺は、東京大空襲の仮埋葬地でした。火葬するため遺体を掘り起こした記録が残っています。
しかし1960年代、道路工事の際に敷地から新たに遺骨が見つかりました。
妙久寺 住職「昭和40年ごろに立体交差にするというので、寺の土地が買収されたんですね。ここをガッと掘り下げたときにお骨が出たんですね。腕のお骨や、足のお骨が何体か出た」
空襲で犠牲になった人の遺骨だと受け止めた住職。今も供養を続けています。
妙久寺 住職「本当に無念な亡くなり方、非業の亡くなり方だったと思うし、やっぱり坊主としてですね、時代がいくら経っても供養はずっと続けていかなきゃいけないなって思いますよね」
空襲被害の実態調査を求めて
墨田区の東京都慰霊堂。現在、安置されている名前のわからない遺骨は、10万以上。名前がわかっていて遺族に引き取られていない遺骨は3600あまりとされています。
母親と2人の弟を亡くした河合さん。今、空襲被害者の救済法を求め、防空頭巾をかぶって国会前に立ち、国への訴えを続けています。
求めているのは、空襲被害の実態を調査し、ひとりひとりが生きた証しを明らかにすること。そして国による補償の対象となっていない、空襲被害者の救済です。
それが戦争の悲惨さや愚かさを次の世代に伝えることにつながると考えています。
河合節子さん「3月10日だけでも10万人以上が亡くなったというふうに、ひとくくりに言われるわけですね。あまりの膨大さの中で1人1人の区別がもう出来なくなってしまったわけですよね。でも、その1人1人にはみんな名前があったと思うわけです。世界の戦争をいまいろんな方が目にしていらっしゃるわけだけれども、必ず市民が一番大変なわけですよね。だからそういう状況を許しますか?自分がそういう立場に立ったときにそれでいいんですか?ということをちゃんと皆さんに考えてほしいと思っています」
東京都慰霊堂が保管する、名前が判明している遺骨3600あまりは遺族が引き取ることができます。
問い合わせ先 公益財団法人 東京都慰霊協会横網町公園管理所
〒130-0015東京都墨田区横網2丁目3番25号
私たちは引き続き、東京大空襲など首都圏各地の空襲の取材を進めます。体験談や情報をお寄せください。
〒150-8001 東京都渋谷区神南2-2-1NHK首都圏局「空襲取材班」
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