<命の恩人に会いたかった 神大アメフト部と父娘>(1)生き埋め7時間 自宅倒壊、仏壇に守られた少女
「あの時は、本当にありがとうございました」。昨年10月14日、神戸市灘区の高羽交差点に現れた中島喜一さん(77)が頭を下げた。目の前には、神戸大アメリカンフットボール部出身の50代の男性6人。阪神・淡路大震災で自宅アパートが全壊し、1階で生き埋めになった喜一さんの妻と次女を引き出した。
冷たくなった妻のふくらはぎを、喜一さんは何度もさすっていた。部員らは母子を病院に運んだ後、その後を知ることはなかった。
30年ぶりの再会。一行は記者を交えて地域を歩き、記憶をたどった。次女は今、45歳。当時は多感な中学3年生だった。
■畳めくって床外し
交差点周辺に住宅街が広がっていた。
1995年1月17日午前、立ち尽くす男性に、通りかかった1人のアメフト部員が声をかけた。男性が言う。「家族が生き埋めになっているんです」
ヘリコプターがごう音を響かせ、パトカーや救急車のサイレンが鳴る。崩れたアパートに向かって名前を呼んでも返事はなかった。
「ここらへんで寝ていたはず」。男性の証言を基に、小柄な部員がバイクのヘルメットをかぶり、崩れた屋根の隙間に入る。畳をめくって床板を外し、奥へ。他の部員も続いた。
地震から7時間後の午後1時ごろ、「女性の足です!」と部員が叫んだ。倒れた仏壇の隙間で、女の子が生きていた。なぜだろう。幸せそうに笑っていた。
■父の心残り
記者がこの話を知ったのは2023年12月。当時のアメフト部員で、僚紙のデイリースポーツで働く足利渉さん(52)から聞いた。
部のチーム名は、「RAVENS(レイバンズ)」。震災時、部員5人が住むアパートが近くにあり、駆け付けた部員と合わせて十数人が周辺で救助活動を担った。女の子の生存が分かった瞬間、男性が漏らした言葉を足利さんは覚えていた。
「妻とご先祖様が、娘を守ってくれた」
記者は住宅地図を調べ、聞き込みを重ねた。女の子の父親が喜一さんと分かったのは昨年2月27日だ。
今は淡路島で暮らす喜一さんに電話すると、かすれ声で喜んだ。「30年間、お礼をできなかったことが心残りでした。何度も捜そうとしたけど、名前も学校も分からなかった」。偶然にも翌日は77歳の誕生日だった。
■笑顔だった理由
中学3年だった女の子は地震後、暗闇や狭い場所が怖くなり、夜に眠れなくなった。進学した高校でも遅刻しがちになった。「自分はダメな人間」と劣等感にさいなまれ、パニック障害とうつ病に苦しんだ。
元アメフト部員たちと再会し、こう伝えた。
「生き残らなければよかったのに、と何度も思ったんです。でも、助けてくれた人に対して、助けてくれなくてよかったとは一度も思わなかった」
そして救出時に笑顔だった理由に触れた。
「生き埋めが本当に苦しくて、苦しみから解放してくれたことが、今でもうれしいんです。陰で誰かが亡くなっていたとしても。助かりたかった。息を吸いたかったんです」
うなずいて話を聞いていた元部員の小笠原秀治さん(55)が言った。
「目の前に生き埋めの人がいたから懸命に助けました。今考えると、当たり前のことをしただけです」
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阪神・淡路大震災で救助に当たった神戸大アメフト部員に深く刻まれた家族の記憶。それぞれの思いと、30年ぶりの再会を伝える。(山脇未菜美)