GMO熊谷社長への集中批判に見る日本社会の危うさーこの人は叩いてもいい」という集団心理(原田隆之)

 サイバー攻撃によって深刻な被害を受けたGMOインターネットグループの熊谷正寿社長に対して、SNSやオンラインメディアで激しい批判が浴びせられている。

 もちろん、企業の経営者としての責任は厳しく問われなければならない。実際、同社では2024年にグループ内の専門家からセキュリティ上の問題を指摘されていたにもかかわらず、十分な対策が取られなかったことが明らかになっている。この点については、経営体制や情報共有のあり方を徹底的に検証する必要がある。

 実際に大きな被害を受けた被害者がいるのであるから、責任ある対応を真摯に行うべきことは当然である。

 しかし、現在の熊谷氏に対する批判の中には、経営責任の追及とはおよそ無関係なものや、批判の域を逸脱した誹謗中傷ともいえるものが少なくない。

面白おかしく伝える報道

 例えば、事件発覚後に本人が笑顔の写真をSNSに投稿したこと、記者会見で涙を流したこと、「命の砂時計」という独特の表現を使ったこと、記者会見時の服装などが、繰り返し揶揄や嘲笑の対象となっている。

 11月3日の『集英社オンライン』は、会見を「熊谷劇場」と呼び、「迷言続出」「30分涙を流し独演」といった表現を見出しに掲げた。また、同日の『東洋経済オンライン』も、会見を「令和の野々村」や「ポエム会見」という言葉を用いて、「ツッコミどころ満載」などと述べている。

 こうした記事には、会見の内容や企業統治の問題を検証する部分もある。しかし、経営上の問題を指摘することと、タイトルや見出しで涙や言葉遣いを面白おかしく取り上げることは別である。

 忘れてはならないことは、そもそも、熊谷氏はサイバー犯罪の被害者でもある。経営者として管理責任を負うことと、卑劣な犯罪被害者であることは矛盾しない。仮にセキュリティ対策に重大な落ち度があったとしても、それによって犯罪被害者としての立場や、一人の人間としての尊厳が失われるわけではない。

 ところが、ひとたび「この人は叩いてもいい」という暗黙の了解が社会に形成されると、そのような基本的な区別さえ失われてしまう。

雪崩を打つような同調行動

 人間は、自分の判断だけで行動するわけではない。周囲の人々が何を考え、どのように振る舞っているかによって、自らの行動を変える傾向がある。

 特に、集団の中では、個人としての責任感や自己抑制が弱まり、普段なら行わないような攻撃的行動が生じることがある。それはたとえバーチャルな集団であっても同じである。

 SNSでは、特定の人物を批判する投稿に大量の「いいね」が付き、それが繰り返し拡散される。すると、その批判があたかも社会全体の総意であるかのように見えてくる。

 本来なら他人の容姿や表情を嘲笑することに抵抗を感じる人でも、「みんながやっているのだから構わない」と考えるようになる。さらに、批判に加わることで仲間から賛同を得られれば、その行動は強化される。

 特に、これを煽動するかのように火をつけたのが、先に挙げたオンラインニュースなどの報道である。そして、それを目にした一般の人々の誹謗中傷についての敷居が下がってしまう。

 こうして、最初は一部の人々による批判だったものが、集団内で共有される行動規範へと変化していく。

 重要なのは、批判が多いことと、批判が正しいことはまったく別だという点である。

「この人は叩いてもいい」という認識

 SNSでは、匿名性や相手との物理的距離、相手の反応が直接見えないことなどが、こうした行動を促進しうる。

 特にSNSでは、ひとたび「この人は叩いてもいい」という無意識な「規範」が共有されると、その行動に歯止めがなくなってしまう。しかし、言うまでもないが、この世界に叩いてもいい人などいない。

 本来なら、人は他者を傷つけることに心理的な抵抗を感じる。しかし、相手を「叩いてもいい人」と位置づければ、攻撃を正当化しやすくなる。

「顧客に迷惑をかけた経営者なのだから、何を言われても仕方がない」「これは誹謗中傷ではなく、正当な批判だ」という理屈である。

 しかし、正当な目的があるからといって、あらゆる手段が許されるわけではない。

企業の危機管理を批判することと、経営者が泣いたことを嘲笑することには、明確な違いがある。説明責任を求めることと、人格を傷つけることも同じではない。

 ところが、「叩いてもいい人を懲らしめている」という大義名分が与えられると、その境界が曖昧になってしまう。

 熊谷氏が笑顔の写真を投稿すれば「反省していない」と批判される。一方、記者会見で涙を流せば、今度は「芝居がかっている」と揶揄される。独特な言い回しを使えば、それもまた揶揄される。

 では、どのように振る舞えば批判されなかったのだろうか。多分、上のようなプロセスによって、何を言ってもどう振る舞っても、何かにつけ揚げ足を取って批判する構造になっていたのだ。

 問題は個々の言動そのものではなく、最初から「批判すべき人物」という結論が決まっており、あらゆる言動がその結論に沿って解釈されることにある。これでは、どのように振る舞っても非難を免れることはできない。

スケープゴーティング

 人間には、複雑な問題の原因を特定の人物に帰属させ、その人物を非難することで問題を理解したように感じる傾向がある。

 現在、相次いで情報漏洩やサイバー攻撃が続いている。そのなかで、われわれ自身がいつ被害者になるかわからない不安を持っている。しかし、見えないハッカーを攻撃したり、非難したりすることは困難であるので、わかりやすい「敵」を作り上げて批判を、その標的に集中しているかのようにみえる。

 つまり、今回の会見において、熊谷氏は格好の「スケープゴート」になってしまったのだ。

 今回も、企業の管理上の不備を検証することは必要である。しかし、それが「攻撃された企業が悪い」「経営者はどれだけ叩かれても仕方がない」という発想に転化すれば、犯罪被害者に対する二次的な加害となりかねない。

報道機関の責任

 ここで特に問題なのは、こうした集団的な攻撃に、SNSの匿名ユーザーだけでなく、報道機関や識者までもが加わりうることである。

 報道機関には、経営責任を検証する役割がある。それは民主社会に不可欠な機能である。

 しかし、会見での涙や独特の言葉遣いをセンセーショナルな見出しにして注目を集めることが、果たして問題の本質を明らかにすることにつながるのだろうか。

 SNSでの嘲笑をオンラインメディアが取り上げ、それをさらにSNSが拡散する。専門家や識者の発言が加われば、そうした批判に権威まで与えられることになる。

 その結果、批判が批判を呼び、社会全体で一人の人物を攻撃するような状況が生まれる。

 もちろん、今回の個々の記事や発言のすべてが誹謗中傷に当たるわけではない。厳しい論評も表現の自由として尊重されるべきである。

 しかし、社会的に批判されている人物だからといって、その人の尊厳を軽視してよいということにはならない。

人権の問題

 ここで問われているのは、人権に対する私たちの姿勢である。人権とは、好感の持てる人や、失敗をしなかった人だけに保障されるものではない。社会的に非難されている人にも、過ちを犯した人にも、等しく保障されるものである。

 経営者であること、社会的地位が高いこと、あるいは経営上の責任があることは、人格を攻撃されてよい理由にはならない。むしろ、人権尊重の原則が本当に試されるのは、社会から非難されている人に対してである。

 さらに、このような集団的攻撃は、標的となった本人だけでなく、社会全体にも悪影響を及ぼす。このような状況をテレビやオンラインで繰り返し見せられると、人々は、「一度失敗すれば、どんな些細な言動も取り上げられ、社会全体から叩かれる」と学習する。

 その結果、失敗を認めることや率直に謝罪することを恐れ、自己防衛的な態度を強める可能性がある。それは、問題の解決や再発防止にとっても逆効果である。

 熊谷氏に対する一連の攻撃は、単なる企業不祥事をめぐる騒動ではない。私たちの社会が、集団的な怒りの中でも理性と人権意識を保つことができるのかを問う問題なのである。

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