書評/サマンサ・ハーヴィー著、小澤身和子訳『オービタル ある一日の16回の夜明け』(早川書房、2026年)

「もしかすると、人間でいるのは大変なことで、それこそが問題なのかもしれない」。

サマンサ・ハーヴィー『オービタル』を読み終えて、もっとも強く残ったのはこの言葉だった。

2024年のブッカー賞を受賞した本作は、宇宙ステーションに滞在する六人の宇宙飛行士の24時間を描く。彼らはその間に地球を16周する。ラボで細胞を観察し、窓の外を眺め、食事をし、眠る。地上にいる母親の死を知る者もいる。物語を大きく動かす事件はほとんど起こらない。

六人にはそれぞれの人生があり、宇宙飛行士を志した理由も、性格も、地上に残してきた家族も異なる。ハーヴィーはその来歴を差し込みながら、現在の宇宙船と彼らが生きてきた時間を往復する。

評者には、宇宙そのものが人間を観察するための装置として使われているように思えた。

時間、身体、生活、他者との境界、世界における自分たちの位置。宇宙まで距離を取ることで、地上では意識されなかった人間の条件が鮮明になっていく。

地上で暮らしていれば、一日には朝と昼と夜がある。軌道上では、宇宙が六人の24時間を奪い、その代わりに16回の昼と夜を与える。身体が持っている時間と、窓の外で展開する時間が一致しない。

ネルについての記述が象徴的だ。

冒険、自由、新しい発見への夢は、宇宙飛行士になりたいという願望へ結実した。ところが宇宙へ到達した彼女の日常は、宇宙船の内部で物を出し入れし、ラボで豆の芽や綿の根を扱う作業の反復によって成り立っている。昔から考えてきたことも、頭のなかで相変わらず周回している。

ハーヴィーが捉えているのは、夢を実現したあとにも生活が続くという事実である。人類にとっての非日常も、そこで暮らす者には日常となる。宇宙飛行士という特別な存在を、食べ、眠り、働く身体へ戻していく。

チエの場合、宇宙と地球の関係はさらに切実になる。彼女は宇宙で、地上にいる母親の死を知る。父親もすでにいない。すると眼下の地球は、自分に生命を与えた唯一の場所として意識される。その自明な事実が、宇宙まで離れることで実感を伴って立ち上がる。

同時に、もしかすると地球で生まれた自分たちはすでに死んでいて、いまいる場所こそ来世なのかもしれない、という感覚も生まれる。地球と宇宙のどちらを「こちら側」と考えるのか。距離が変わることで、自分が世界のどこにいるのかという認識まで揺らいでいく。

宇宙は、人間同士の境界にも作用する。

アントンは心、ピエトロは頭脳、ロマンは手、ショーンは精神、ちえは良心、ネルは呼吸。六人は一つの身体を構成しているかのように語られるが、当人たちはこのメタファーを馬鹿げていると笑う。この笑いが、六人を一つの共同体へ安易に回収する読みへブレーキをかける。

一方、作品の語りは六人を別の仕方で接近させていく。

訳者あとがきによれば、ハーヴィーは本作によって「現代のヴァージニア・ウルフ」とも評されるようになったという。その理由の一つに、意識の流れの手法がある。

本書では、ある宇宙飛行士が窓から地球を見ると、その視線を契機に別の人物の記憶や感覚へ移り、さらに六人が共有する経験へ広がっていく。それぞれの意識の帰属先は滑るように変わり、ときには切り替わりの境目も見えにくい。そして語りは「私たち」という主語を持ち始める。

作中人物は「一つの身体」という統合を笑いながら、文章の側では六人の意識の境界が緩んでいく。個別性を保ちながら「私たち」へ接近する。その緊張を内容と形式の双方で維持しているところに、本作の語りの巧さがある。

ただ、この流動性には代償もある。

意識が滑らかに接続されるほど、一人ひとりの人物像は薄くなる。固有性をもっと知りたいと思ったところで、語りは別の意識へ移る。形式的な美しさと、人物へ深く入り込むことの難しさは、同じ技法から生じている。個人の境界を揺らした作品は、今度は人間を見る尺度そのものを動かしていく。

軌道上の六人から、地上の一軒の家へ視線が移るシーンがある。

かぼちゃを育てながら暮らしていた男女。男が死に、女が一人残される。年月が流れ、狭い階段の上に横たわる彼女を著者は「負けじと木になった」と表現する。

そこから語りは軌道上へ戻り、眼下の巨大な台風を捉え、「六人は無力だ」と記される。

一軒の家から惑星全体へ視界を拡張し、巨大な台風さえ一望できる。それでも、一人の死にも台風にも介入できない。視野が最大まで拡張された地点で、行為の限界が露出する。

ロマンとアントンが顕微鏡で細胞を観察する場面では、尺度が反対方向へ動く。窓の外には巨大な地球があり、手元には顕微鏡でようやく確認できる細胞がある。自分たちの心臓も、同じような細胞によって動いている。

一軒の家から惑星へ、人体から細胞へ。『オービタル』は視点の倍率を変えながら、その中間にいる人間の位置を測り直していく。

そこで浮上するのが、「もっと」を求める探求心である。

もっと多くの知識を。もっと速度を。もっと安定を。もっと遠くへ。もっと近くへ。

人類は「もっと」を求めて宇宙まで来た。その先で六人が知るのは、自分たちがいかに小さく、取るに足らない存在であるかという事実である。

六人はときどき、地動説に至る歴史を巻き戻し、地球の周囲を宇宙が回っていると考えられた時代へ戻るほうが楽かもしれない、と思い至る。科学は人類へ知識を与えると同時に、人間と地球を世界の中心から遠ざけてきた。その先で六人は、宇宙そのものにも中心が成立しないことを知る。

だから冒頭の言葉が効いてくる。

人間は自分が何者なのかを知ろうと世界を調べ続けた結果、自分が世界の中心にいないことまで知ってしまった。それでも探求をやめられない。「もっと」を求める力と、その「もっと」によって自我を削られる経験が、同じ人間の内部にある。

視野をどこまで広げても、観察をどこまで細部へ進めても、その先には人間の手が届かない領域が残る。

ここまで尺度を広げ、また縮めたところで、本作が露出させてきたものに名前を与えたくなる。

私が本書に感じたのは、「有限の極北」である。

宇宙という最大級の空間まで到達した人間が、そこで突き当たるのは、自らの身体、行為、認識の限界である。六人に与えられたこの一日は、その逆説を露出させるための時間として組み立てられている。

ただ、本作はそこで思考を止めない。

チエが母の死を通して見たように、地球が宇宙の中心である必要がなくても、そこが生命を生み出した場所であることは変わらない。一軒の家で死んでいった女の人生も、宇宙的な尺度では認識できないほど小さい一方、彼女自身にとっては一生そのものだった。

ハーヴィーは巨大な尺度と小さな尺度を往復しながら、価値を測る物差しまで問い直していく。

六人が過ごす24時間、16回繰り返される昼と夜、一人の人間が生きる年月、そして人類が積み重ねてきた文明。長さの異なる時間が、いずれも始まりと終わりを持つものとして同じ視野に収められる。

細胞から惑星へ、一人の人生から文明史へ、個人の意識から「私たち」へ。宇宙という観察装置に置かれることで、人間が自らを理解するために使ってきた尺度が次々に揺らいでいく。

本書に感じた「有限の極北」は、その先にある。世界の中心から外れ、自らの有限性を知りながら、それでも世界を知ろうとする人間の姿である。

「人間でいるのは大変なことで、それこそが問題なのかもしれない」。

本書は、その厄介な人間の営みを、地球を16周する一日のなかに収めている。16回の昼と夜によって一日の尺度が揺らぐように、人間が過去・現在・未来へと分けてきた時間の尺度も、軌道上では揺らいでいくのだ。

「過去がやって来て、未来が続き、過去が来て、未来が続く。いつも今だが、決して今ではない」

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