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インタビュー

2025.08.20

関本一樹 / サイエンスポータル編集部

 断りもなく血を吸い、かゆみだけを残して去っていく蚊。迷惑千万な存在である彼女ら(吸血するのはメスのみだ)を愛せる人は、おそらく皆無に近いだろう。かゆみだけでも許しがたいのに、実は最も人類をあやめている生物でもある。世界保健機関(WHO)などが2014年に出した推計によると、マラリアをはじめとする感染症の媒介者として実に年間72万人を死に至らしめている。

 そんな恨めしい蚊の吸血行動について、昨年ユニークな研究成果が出た。「腹八分目」で吸血をやめるというのだ。今日8月20日は、イギリスの細菌学者ロナルド・ロスが蚊の体内からマラリア原虫を発見した日にちなんで制定された「世界蚊の日」。朗らかにインタビューに応えてくれた佐久間知佐子さん(理化学研究所生命機能科学研究センター上級研究員)に免じて、少しだけ広い心で蚊の生態に目を向けてもらいたい。

佐久間知佐子さん

リスクある吸血行動に疑問と関心

―はじめにどうしても確認したいのですが…佐久間さんは蚊がお好きなんですか。

 いやいや、皆さんと何も変わりませんよ。見つけたら追い払いますし、寝ているときに耳元で飛ばれるのも許せません。血を吸われるのも、もちろん嫌です。

―安心しました。では、そんな憎き蚊の研究をなぜ始めたのですか。

 もともとはショウジョウバエを対象に、どのように神経が形づくられるかを研究していました。複雑な遺伝学を駆使して脳内の神経細胞を1つだけ変異細胞に変え、形状に異常が起きるメカニズムを解明する研究です。細胞の形が目に見えて変わるので面白い研究ではあったのですが、多くの人が行動研究を始める時期でもありました。

 そんなとき、当時のボスから「吸血生物は面白いよ」と誘いを受けたんです。ちょうど蚊の遺伝子配列が明らかになったばかりで、研究している人も少なかったので興味を持ちました。調べてみると、ますます面白い。「宿主に襲われるリスクがあるのに、なぜわざわざ危険を犯すのだろう」と。そんな疑問と関心から、蚊の研究へと舵を切りました。

研究対象のネッタイシマカ。デング熱などを媒介することで知られ、アフリカを中心に熱帯・亜熱帯に分布している。ヤブカの一種だが日本にはいないとされている

手当たり次第の実験で突き止めた血液凝固成分

―人間でも難しい「腹八分目」で、なぜ蚊は吸血をやめるのですか。

 おそらく先程触れたリスクへの対応ではないかと。宿主の忌避行動(追い払う、叩くなど)に遭うのを避けるため、満腹(膨満)状態になる前に吸血をやめるというのが私の仮説です。

人工吸血法で色の付いた溶液を吸う蚊。吸血後は約2.5倍もの重さになり、飛ぶためのエネルギーが増えるのでしばらくは必要以上に動かない。元の重さに戻るのは約1日後(サイエンスポータル編集部・腰高直樹撮影)

―今回明らかにした「腹八分目を知る」メカニズムはどのようなものですか。

 宿主の血液に含まれるフィブリノペプチドA(FPA)という成分が関係していることがわかりました。ケガをすると、傷口の血液が固まって出血が止まりますよね。これを血液凝固というのですが、FPAはその初期段階で作られる物質です。血液凝固が進む中でFPAは血液から切り出され、宿主にとっては不要になりますが、蚊は切り出されたFPAに反応して吸血をやめることを突き止めました。

―どのような実験で突き止めたのですか。

 吸血を促進する物質として、やはり血液に含まれるアデノシン三リン酸(ATP)の存在が以前から明らかになっていました。これを溶かしたATP溶液を蚊に吸わせたところ、膨満状態になるまで吸い続けたんです。つまり血液とは違い、腹八分目でやめることをしなかった。

FPAは吸血開始からある程度の時間が経過し血液凝固が始まったタイミングで作られる。それをシグナルに蚊は膨満に至る前の「腹八分目」で吸血をやめる(理化学研究所提供)

 そこで今度は、ATP溶液に血清(血液が固まるときに残る上澄み部分の液体)を加えてみました。蚊は血清単独だと吸わないことが以前から知られていましたが、ATP溶液との混合の場合、膨満になるまで吸い続ける蚊が大きく減ったのです。

 つまり血清に含まれる何らかの成分が、吸血を止める効果を持っているのだろう、と。そうは言っても、血清には膨大な成分が含まれていますからね。小学生の科学実験のごとく、手当たり次第に可能性を試しました。血清に熱を加えてみたり、血そのものをカエルやポリプテルス(ハイギョ)のものに変えてみたり。

佐久間さんらの実験プロセス

新しい情報や技術で裏付けに成功も研究は道半ば

―なぜ宿主の血液に秘密があると見込んだのですか。人間でいうところの満腹感のように、蚊の身体に理由があると考えるのが自然のように思います。

 先ほど言った「手当たり次第」の結果論でもあるのですが…。そもそも1960年代の研究で、蚊が物理的に膨満を感知し、吸血を制御する機構の存在が示唆されていました。満腹感を脳に伝達するための神経が腹部にあるようなのです。

 ただ、例えば犬の毛深い部分に上手く針が刺さらず、吸血が順調に進まないときなどは、腹八分目にならなくても途中でやめるんですよ。つまり吸った「量」だけではなく、血液が固まり出す「タイミング」でも制御する仕組みが別にあると考えたのです。忌避行動に遭うリスクを避ける上でも、一定のタイミングで吸血をやめるのは理にかなっていますよね。

時折満面の笑みを浮かべながらインタビューに応じてくれた佐久間さん

―満腹感を感知する神経の存在が示唆されてから50年以上経った今、なぜ新たな発見に至ったのでしょうか。

 「針を何分で抜いたか」といった、吸血行動を現象論として扱った研究は、これまでにも多くありました。しかし、ここ10年ほどで蚊の遺伝子情報の精度が上がり、クリスパー・キャス9(注:現在主流のゲノム編集ツール)などの技術も登場したことで、メカニズムを裏付けることに成功したわけです。

 ただし、宿主のFPAに吸血抑止効果があると今回わかった一方で、やはり蚊の身体側にもセンサー(受容機構)が備わっているはずなんです。その存在はまだ明らかにできていないので、研究はまだまだ道半ばですね。

1匹で感染症を大きく広げる恐ろしさ

―蚊は人間以外の血も吸いますよね。FPAはどんな生き物にも含まれているのですか。

 はい、哺乳類の血液には必ず。「高度な保存」と言って、FPAは種を超えて遺伝子配列に組み込まれていて、血液中に存在します。蚊が吸った血液を調べてみると、吸血を途中でやめるのを繰り返したこともわかりますよ。複数の人の血が含まれていることはもちろん、人・馬・犬といった組み合わせになっていることも。腹八分目になるまでは、基本的に何度も吸血を試みますからね。

―人から人、動物から人、さまざまな形で蚊が感染症を媒介するのも納得です。

 蚊が恐ろしいのは、感染症を大きく広げてしまうところにあります。今触れたように1匹の蚊が複数の人から短時間で血を吸うことも珍しくありませんし、逆に1人が複数の蚊に吸われることもありますよね。日本では2014年に、東京の代々木公園を訪れた人を中心に160人がデング熱に罹患しました。患者の血液を調べると、ほぼ全ての感染者が同じウイルス株だったのです。つまり感染源はたった1人で、蚊の吸血の連鎖によって広がったというわけです。

―普段から知らない間に血を吸われていることを考えると、どう防げば良いのか…。

 代々木公園の一件で見事だったのは、医者がデング熱を疑ったことだと思うんです。デング熱の初期症状は普通の風邪と共通する部分も多いので、診断が難しい。早期にデング熱だと特定できたことで、速やかに公園を封鎖するなどして感染拡大を防ぐことができました。

2014年に代々木公園周辺で罹患した都内のデング熱患者の推移(発症日不明者除く)。速やかな対応が感染拡大を防いだことがわかる(東京都感染症情報センター資料をもとに編集部作成)

 この事例からもわかるように、蚊が媒介する感染症を防ぐのは容易でなく、さまざまな立場の人による統合的な対応が必要なのです。私が所属する動物衛生学会にも、公衆衛生の専門家、医者、自治体・行政関係者などが参加しています。

代謝阻害や産卵モード誘導…吸血減らしにさまざまな努力

―佐久間さんをはじめとする研究者にできることは。

 これも単一的な手段で対応できるものではありません。私は蚊を殺さずに、人に対する興味を失わせることができないかと考えていて、最近は「代謝」に注目しています。蚊の代謝メカニズムって、実は人とほぼ同じなんですよ。例えば抗がん剤などの代謝阻害薬を飲んでいる人の血を飲んだ蚊は、同じように代謝が阻害されます。

 そこで蚊の代謝を人為的に促進することで、腹八分目に近い状態に誘導できないかと考えているところです。それができれば、人の健康のためにも技術を生かせると思っています。

幼虫(ボウフラ)時は水中で生活し、成虫になってからは飛び回るため、蚊の飼育はなかなか大変だという

 また、吸血後3日間、蚊は宿主に近寄りません。栄養を卵へ集中的に送り込むためです。そうした産卵モードへ人為的に誘導できれば、吸血を減らせるかもしれません。

 ほかにも、蚊は花蜜も吸うのでベイト(エサ)に毒を混ぜる研究をしている人や、飛ぶための筋力を弱める研究をしている人など、さまざまな努力が重ねられています。ただ、遺伝子改変した蚊を自然界に放つことの是非や、生態系への影響など、クリアすべき課題も多いのが実情ですね。

温暖化で高まるリスク、研究者の輪を広げたい

―今すぐに蚊から逃れることは難しそうですね。

 残念ながら、しばらくは今までと同じような対策が必要ですね。ボウフラが好む水場を作らない、茂みに入るときは長袖を着る、虫除けを適切に使う―これらを怠らないことが、不快な生活だけでなく感染症を防ぐ第一歩でもあります。

 ただし、地球温暖化に伴って憂慮すべき変化も起きています。昨年話題にもなりましたが、猛暑によって真夏の時期には蚊が活動せず、かわりに年末頃まで蚊が当たり前のように活動するような事態も起きました。また、関東が北限と言われていたヒトスジシマカの生息域は徐々に北へと広がり、数年前には青森県で越冬した事例も確認されています。

「ヤブカ」と呼ばれ東北以南でよく目にするヒトスジシマカ(腰高直樹撮影)

 私の研究対象であるネッタイシマカも、今は日本に定着していませんが、再び必ず入ってくると予測する研究者もいます。媒介者としての能力が非常に高いため、感染症のリスクが高まることにもなりますよね。ちなみに、蚊媒介感染症による死者の半数以上を占めるマラリアを媒介するハマダラカは日本国内にも生息していますが、今のところ温暖化によるリスク増加は指摘されていません。

―今後の意欲をお聞かせください。

 蚊は私たちが日常的に出会う生物なので、簡単にできる対策が求められます。そのために、同じ方向を向いて一緒に取り組める研究者の輪を広げたいですね。

 また、日本の蚊は系統分類学的にユニークだと言われています。日本だからこそできることがあるはず。いつ何時、何が起きても良いように、研究者として貢献したいと思っています。

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