広島・長崎に原爆を落とした男たちの「最期の証言」
NIPPON
Long Read2025.8.5
彼らはあの日をどう記憶し、そこに罪の意識はあったのか
広島に原爆を投下した「エノラ・ゲイ」の搭乗員。エノラ・ゲイの愛称は機長であるポール・ティベッツ(後列左から4人目)の母親の名前から付けられた Photo by PhotoQuest/Getty Images
Text by Stephen Walker
戦後80年を迎えたこの夏、『カウントダウン・ヒロシマ』(早川書房)の著者で英国人作家のスティーヴン・ウォーカーが過去の取材ファイルを再び開いた。そこに記されていたのは、広島と長崎に原爆を投下した男たちが晩年、あの任務と当時の思いを鮮明に振り返った言葉だ。
「実に美しい朝だった。建物には陽光が降り注ぎ、眼下のすべてがまばゆいほどに輝いていた。80キロ先からでも街の姿がくっきりと見て取れ、街を二分する川も投下目標もはっきりと目視できた。空は雲一つなく、澄み切っていた。すべてが完璧だった。まさに完璧な任務だったよ」
私はサンフランシスコの中華料理店で、1945年8月6日に広島に原子爆弾を落としたB29爆撃機「エノラ・ゲイ」の航法士と向き合っていた。
それは2004年のことで、当時83歳だったセオドア・バンカークは、私が執筆していた本のための取材に応じてくれたのだ。彼は、かすかな笑みを浮かべながら、おそらくこれが人生最後のインタビューになるだろうと言った。先の戦争を知る世代が年々少なくなり、核戦争の脅威も高まるなか、彼らが遺した言葉は今日の私たちにとってどんな意味を持つのか。そして、そこに罪の意識はあったのか──。
その日の午後、私たちは彼の58回に及ぶ戦闘任務の戦時飛行日誌を見て過ごした。そしていま、彼は点心を口に運びながら、59回目の任務について語ろうとしていた。一つの街と、10万人をはるかに超える人々を消し去った、あの任務について。
「爆弾が爆弾倉を離れた瞬間、私たちは衝撃波を避けるために急旋回し、そのまま急降下に入った。衝撃波は2度襲ってきた──最初のは、まるで至近距離で高射砲が炸裂したような感じだった。それから旋回して広島に目をやったが、もう何も見えなかった。煙と塵、瓦礫で覆われていたんだ。そして、その中から立ち上っていたのが、あのキノコ雲だ」
彼は一瞬、口をつぐんだ。その顔からは畏怖の念が見て取れた。「街は消えていた。爆弾を投下してから、まだ3分しか経っていなかった」
バンカークは2014年に93歳で亡くなった。広島と長崎での原爆投下任務に参加した他の者たちも、すでに全員がこの世を去っている。
一方で、原爆被害の生き証人である被爆者も高齢化が進み、その数は急速に減少している。私たちは一つの歴史の終焉に差し掛かっているのだ。原爆投下から80年の節目を迎えるいま、この避けられない事実は不穏なほど重要な意味を帯び、今日の問題に直結してくるように思える。
近年、核兵器開発を目指す国が増加するなか、核兵器を管理する国際的な枠組みはほとんど機能していない。ロシアや北朝鮮は戦術核の使用を公然とほのめかしている。つい最近では、イランが核爆弾保有に近づいているとの懸念から、中東で戦闘が勃発した。
このような時代には歴史的視点を持つことが大事だ。バンカークのようにあの任務に加わった男たちの衝撃的な証言に、いまこそ耳を傾ける必要がある。そこには私たちが学ぶべき教訓があるからだ。
そう考えた私は、古い取材ファイルを再び開き、広島と長崎に原爆を投下した爆撃機の搭乗員たちのインタビュー記録を読み返すことにした。資料の多くはこの20年間、手つかずのままであり、とくに長崎の任務に関する証言はいっさい公にしてこなかったものだ。
これから記すのは、想像を絶する任務を遂行した者たちの最期の証言だ。80~90代になり、人生の終わりに近づいていた彼らは、あの日をどのように記憶していたのか──。 1945年8月4日、B29爆撃機の操縦士だったチャールズ・オルバリー(当時24歳)は、日本から南へ約2400キロ離れた、太平洋に浮かぶテニアン島での極秘作戦会議に召集された。
当時、世界最大の爆撃機基地だったテニアン島は、日本攻撃に向けて毎日のように繰り返される、いわばベルトコンベア式の出撃拠点だった。この時点ですでに約30万人の日本人が命を落とし、900万人が家を失っていた。
ところが、オルバリーの部隊はまだ一度も出撃していなかった。彼らの第509混成部隊は、基地の片隅にある秘密区画に駐留していた。「警備は恐ろしく厳重だった」と、83歳になったオルバリーはフロリダ州の自宅でそう回想した。
ユタ州で始まった訓練はテニアン島に場所を移し、すでに1年近くに及んでいたが、最終任務の内容は知らされていなかった。
「私たちは何度も模擬爆弾を投下し、常識はずれの急旋回飛行を繰り返した。来る日も来る日も、何ヵ月もだ」
だが、その理由は誰も説明してくれず、あえて尋ねようとする隊員もほとんどいなかった。もし尋ねれば、歴戦の爆撃機パイロットである指揮官のポール・ティベッツによって、北極圏の過酷な任地へ即座に左遷されかねなかったからだ。