カウンセリングは怪しいと思う人へ…東畑開人が答える、カウンセラーが何を考えているか(東畑 開人)

東畑開人さんの『カウンセリングとは何か 変化するということ』(講談社現代新書)が発売から2週間で7万部を突破しました。カウンセリングの現場で何が行われているのかを明らかにすることが、「心とは何か」「生きるとは何か」「社会とは何か」を知ることにもつながっていく一冊です。 東畑さんに、臨床心理士としての20年間の集大成とも言える本書について、お話をうかがいました。インタビュー(1)前編では、本を書いた動機や、カウンセリングに対するよくある誤解、カウンセラーが具体的に何をしているのかを聞きました。(取材・構成、文/小沼理)

——『カウンセリングとは何か』では、カウンセリングについて専門用語をなるべく使わず日常的な言葉で書かれています。 

東畑 この30年、カウンセリングについて語った本は無数に書かれてきましたが、それらのほとんどが特定の学派や問題、現場に特化した「各論」であったというのが一番大きな問題意識でした。高度で専門的な論が発達してきたことは素晴らしいのですが、それらがバラバラに存在しているがゆえに、一体カウンセリングとは何なのかがよく見えなくなっていました。一般市民はもちろん、専門家でさえわからなくなった。

それは僕自身の体験でもあります。僕は20代の初めに大学で本格的にカウンセリングを学びはじめましたが、当初はカウンセリングを「ふしぎの国」のように感じていました。例えば河合隼雄のカウンセリング論を読むと、「人と人との関係が深まることで、人は変化する」と書いてある。それはとても魅力的なのですが、具体的に何をすればいいのか、実態がよくわからなかったんです。

人はなぜ、どうやって変わるのか。きわめて素朴な問いです。これについての専門的な理論は一応たくさんある。でも、専門用語の霧によって、むしろ本質が見えにくくなったと思うんですね。高度に専門化されたことで、神秘化されやすくなるからです。

ですが、20年間臨床心理士として仕事をする中で、カウンセラーは決して「ふしぎな」ことではなく、日常生活と地続きの、具体的で実務的なことをしているのだとわかってきました。そこで、神秘的でも魔術的でもない言葉で、つまり現実的かつ世俗的な言葉でカウンセリングを語った本を書こうと思ったんですね。そういう意味では、挑戦的な気持ちがありました。臨床心理学が見失ってきた原論を取り戻そう、という試みです。

ここには、自分が42歳になり、カウンセリング業界全体に対する責任感が生まれたこともあります。上の世代の語った言葉ではなく、自分たちや、次の世代のための言葉を作らなければならないと感じていました。勝手な責任感かもしれませんが、でも中堅になるとは、そういう業界全体への責任を感じることだと思うんですね。そういう中で、一般の方に向けたカウンセリングの本を書くタイミングが訪れたのだと思っています。そしてそれは、専門的に書くことよりもずっと深いところで本質をとらえる挑戦だったと思います。

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——専門家と一般の方、双方の立場から語ることで、カウンセリングを立体的に描こうとしています。

東畑 複数の視線で一つのものを見るのが僕のスタイルです。それはたとえば、『野の医者は笑う』という、臨床心理士の視点と医療人類学の視点の両側から心の治療を見直そうとした本から始まっています。心理療法を外側の視点と内側の視点の両方で見ること。今回だと、専門家の視点と市民の視点、あるいは心理学の視点と社会の視点です。二つのまなざしを重ねることで、カウンセリングの本質を立体的に浮かび上がらせるのが狙いです。

たとえば、冷蔵庫を二つの視点で見てみる。専門家は冷蔵庫を「コンプレッサー」「冷媒ガス」といった専門的な言葉を使って語ることができる。これに対して、市民は「麦茶をおいしく冷やし、肉を保存するもの」だと冷蔵庫を語る。するとさらに、「食物を貯蔵するとは何か」といった人間の根幹にかかわる問いにまで発展するかもしれません(資本主義の発生ですね)。冷蔵庫について、市民のまなざしを向けることで生まれる本質的な理解があるわけです。

専門家の言葉で理解するだけでは、この本質的な理解に到達できないのではないかと昔から感じていました。「カウンセリングって何の役に立つんですか?」という素朴な問いにこそ、原論があると感じてきたということです。この本をひたすら日常的な言葉で書いていたのはそのためです。

——カウンセリングの利用者を「ユーザー」と呼んでいるのも特徴的です。カウンセリング業界では伝統的には「クライエント」「患者」などと呼ばれますよね。

東畑 「ユーザー」というのは消費者であり、サービスの利用者でもあります。カウンセリングを「受ける」ものではなく、「使う」ものであるという思想が、この言葉遣いには込められています。

カウンセラーというと、一生をかけて心や人間を理解しようとする求道的な存在のように描かれることがあります。たしかに、そうした側面もある。でも、この社会を生きている人にサービスを提供する仕事でもあるんですよね。この社会で起きるトラブルや苦悩を解決するためにカウンセリングはどのように使えばいいのか。それは人間の苦悩が何によって解決されるのかという本質的な問題と繋がっています。

実際、この言葉を使うカウンセラーは、僕の世代では少しずつ増えてきていて、そこには「カウンセリングはサービス業」という、ある種のクールな構えがあるわけです。これも神秘化を脱するための世俗的工夫だと言えます。

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