高校生たちは、かすかに聞こえる声を頼りに生存者を捜した<被災記者 河北新報・渡辺龍の5年6カ月(3)>

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 東日本大震災の津波で、宮城県南三陸町にあった河北新報の志津川支局(現気仙沼総局南三陸分室)も流失した。駐在記者の渡辺龍(りょう)は南三陸の復興の歩みを追い続けたが2016年9月、大腸がんのため43歳で死去した。震災から15年。渡辺は南三陸の何を伝え、どんな未来を思い描いたのか。被災記者の軌跡をたどった。(門田一徳)

慈恵園の利用者を救助する志津川高野球部などの運動部員ら=2011年3月11日午後4時10分ごろ、宮城県南三陸町(写真を一部加工)

 河北新報志津川支局(現気仙沼総局南三陸分室)の記者渡辺龍が徒歩で仙台へ出発したころ、報道部記者の昆野勝栄(58)と斎藤秀之(55)は宮城県南三陸町の被災地に足を踏み入れようとしていた。2011年3月12日、時計は昼近くに差しかかっていた。

 2人は地震発生直後に仙台市青葉区の河北新報本社をタクシーで出発。当初は盛岡市を目指したが、移動中に南三陸町に向かうよう指示を受けた。タクシーの燃料補給や渋滞などがあり到着は大幅に遅れた。

 歩き始めると、海も見えない場所に漁船が打ち上げられていた。特徴的な三角形の屋根が流れ着いていた。昆野が近くの人に尋ねると、「志津川駅近くの美容院」という。海岸からは2キロ以上も離れている。「これは、とんでもない数の人が犠牲になっている」と直感した。

野球部員が次々と施設に向かう

多くの避難者が身を寄せた志津川高の武道場=2011年3月12日、宮城県南三陸町

 渡辺の無事は本社との連絡でつかんでいた。斎藤は志津川高(現南三陸高)で合流しようと、避難所となっていた武道場をのぞく。場内は足の踏み場もないほど混み合っており、渡辺を捜すのは諦めた。

 昆野は高校の一角で、毛布を掛けられた複数の遺体を目にする。聞くと、特別養護老人ホーム「慈恵園」から救出された高齢者という。高校の手前で見た平屋の施設だ。

 慈恵園に津波が到達したのは11日午後3時35分ごろ。水が引いた瞬間、野球部の生徒たちが施設につながる76段の階段を次々と駆け降りた。他の運動部員たちも続く。

 施設はあちこちの壁が抜け、がれきが散乱していた。垂れ下がった電気コードから火花が散った。水に漬かり亡くなっている人もいた。生徒たちは耳を澄ませて、かすかに聞こえる声を頼りに生存者を捜す。

 野球部主将の佐藤(旧姓三浦)亮太(32)は、ベッドにいた高齢女性をそばに浮かんでいた畳に乗せて押し、動けなくなった施設職員を背負い助け出す。水はまだ腰まであった。「怖かったが無我夢中だった」

 渡辺も校庭で津波を撮影した後、生徒たちを追う。畳やカーテンを担架代わりに高齢者らを救出する姿を捉えていた。

「命」が軽くなった現場

震災当日の一夜を明かした高台から避難所などに移動する被災者=2011年3月12日、宮城県南三陸町

 慈恵園では利用者48人と職員1人が死亡した。生徒たちは約30人を施設から救出したが、寒さなどで約10人が朝までに亡くなった。

 昆野が目にしたのは、安置された利用者だった。校庭に回ると、高校生たちが雪をかき集めてポリ袋に詰めていた。遺体を冷やすためだと察しがついた。「こんなひどいことまで子どもたちがしなければならないのか」。言葉を失い、声もかけられなかった。

 昆野と斎藤は、南三陸町の取材を2時間弱で切り上げタクシーで仙台に向かう。通信回線が途絶えたままで、原稿は本社に戻って出稿する必要があった。

 13日朝刊社会面に掲載された南三陸町のルポに昆野の署名はなかった。昆野は記者20年のベテランだが、その日、被災地で見たことを何一つ文字にできなかった。「書かなければならないことがたくさんあったのに機能不全に陥った。『命』が軽くなった現場に現実感を持てなかったというのが正直な感情かもしれない」と打ち明ける。

 12日夜、疲れ切って戻った自宅で、雪をかき集める高校生たちの姿が浮かんだ。昆野の目から涙がぼろぼろとこぼれ落ちた。(肩書は当時。敬称略)

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