涙を浮かべたゼレンスキーは、なぜ退陣すべきなのか(ニューズウィーク日本版)
2025年2月、ホワイトハウスの大統領執務室で行われた会談が、カメラの前で激しい口論に発展する直前のことだ。ある記者がウクライナのウォロディミル・ゼレンスキー大統領に、なぜスーツを着ていないのかと詰め寄った。アメリカ大統領との会談に正装せずに臨むのは失礼だ、というのだ。
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ゼレンスキーは、戦争が終わって平和になったら「スーツを着る」と答えた。その年の8月、再びホワイトハウスを訪れたときも戦争は続いていたが、服装はスーツに近いものに変わっていた。ウクライナ人デザイナーが手がけた、軍服を思わせる黒いジャケットだった。前回と同じ記者が「よく似合っている」と褒めると、ゼレンスキーは記者のスーツを見て、「あなたは前回と同じ服だ」と切り返した。しかし、服装を変えても、ゼレンスキーの立場は少しも好転していない。10月9日、アメリカのドナルド・トランプ大統領はロシア産軽油のアメリカなどへの輸出を認めるため、制裁を緩和することでロシアのウラジーミル・プーチン大統領と合意したと発表した。ロシアに新たな収入をもたらしかねないこの取引をゼレンスキーが批判すると、翌10日、トランプは「ウクライナには新しい大統領が必要だ」と発言した。さらに、アメリカの保守系ニュース専門局ニュースマックスの取材では、ゼレンスキーはプーチンよりも扱いにくく、別の人物がウクライナの交渉を担うべきだと主張した。ロシア大統領府は「全面的に同意する」と表明した。ゼレンスキーはこの辞任要求を受け入れるべきだ。トランプをはじめとする批判者が正しいからではない。むしろ、彼らの見方は、ほぼ間違いなく誤っている。ゼレンスキーが退陣すれば、和平を阻んでいるのが本当に彼個人なのか、はっきりするはずだ。
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ウクライナ政府は2025年春以降、ロシア軍が占領地にとどまったまま停戦することには応じる姿勢を示している。しかし、占領地をロシア領として正式に認めることは拒んでいる。この立場はゼレンスキー個人の意向だけで決まっているわけではなく、大統領が交代しても簡単には変えられない。ゼレンスキー個人とは無関係に存在し、彼が退陣しても残る障害が3つある。まずは法律だ。ウクライナ憲法は、領土の変更には全国民による国民投票が必要だと定め、戒厳令下での憲法改正も禁じている。ゼレンスキーは、領土の割譲を伴う合意は国民投票にかけなければならないと述べている。だが、戦時下の法律は国民投票も選挙も禁じている。ゼレンスキーによれば、国民投票を実施するには60日間の準備期間と実効性のある停戦が必要だ。一方、プーチンが停戦の条件として要求しているのは、ウクライナ東部ドンバス地方のうち、ウクライナ側がなお支配するドネツク州の地域を明け渡すことだ。ドンバス地方はドネツク州とルハンスク州からなり、すでに大部分をロシア軍が占領している。
停戦がなければ国民投票はできない。だが、プーチンは停戦の条件として領土の明け渡しを要求している。そして、ウクライナは国民投票なしに領土を譲ることができない。ウクライナ憲法を作ったのはゼレンスキーではない。ほかのウクライナ国民と同じように、彼も憲法に従わなければならない。
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アメリカのシンクタンク「戦争研究所(ISW)」は、この地域を明け渡せば、ロシア軍は防御態勢がはるかに手薄なハルキウ州、ドニプロペトロウスク州、ザポリージャ州へ進攻するための足掛かりを得ることになると警告している。ハランは、この防衛線を放棄すれば、1938年のミュンヘン協定の過ちを繰り返すことになると指摘する。当時、イギリスとフランスはナチス・ドイツとの戦争を避けるため、チェコスロバキアの国境地帯をドイツに割譲することを認めた。チェコスロバキアは重要な防衛拠点を失い、わずか半年後には残る国土もドイツによる占領などで解体された。仮にゼレンスキーが辞任したとすると、憲法第112条に基づき、議会議長のルスラン・ステファンチュクが大統領代行に就任する。戒厳令下では実施できない選挙が行われるまで、その職務を担うことになる。法学教授でもあるステファンチュクは、大学時代、コメディー活動を通じてゼレンスキーと知り合った旧知の仲だ。皮肉なことに、プーチン自身も議会議長の正統性を認める発言をしている。2024年、プーチンはウクライナの議会と議長について「ウクライナで唯一の合法的な権力機関」だと述べていた。だが、交渉相手がステファンチュクに代わっても、返ってくる答えは同じだ。憲法も、有権者も、要塞都市も変わらないからだ。選挙を実施しても変わらない。ハランは「現実に大統領候補となり得るウクライナの政治家なら、誰も譲歩しないだろう」と語った。
後任の大統領がトランプにどれほど愛想よく接したところで、ロシアへの領土割譲を拒むウクライナの立場は変わらない。