三宅香帆の“母殺し”と東畑開人の“ツアーガイド”が意味するものとは? 綿野恵太が語る令和人文主義
昨年、人文界隈のタイムラインを席巻した「令和人文主義」の話題も、一時期に比べればあまり目にしなくなってきた。しかし、いまの人文知のあり方を考えるうえで、令和人文主義について語るべきことはまだあるようにも思われる。
そこで、令和人文主義で定義された世代にすっぽり入っていながら令和人文主義に数え入れられていない書き手に、令和人文主義について尋ねてみた。
2019年刊行のデビュー作『「差別はいけない」とみんないうけれど。』が今年1月に増補版として文庫化された綿野恵太氏である。同世代から見る令和人文主義とは。(取材日時:2026年1月30日)
綿野恵太『増補改訂版「差別はいけない」とみんないうけれど。』(朝日文庫)みんなが本を読んでもべつに良い世界にはならない?
――このたびは綿野さんに令和人文主義を出発点としていまの人文知や批評の状況についてお聞きしたいと思います。綿野さんは令和人文主義で定義された世代(1985年生まれ以降の若い書き手)に入っていて、2019年(令和元年)に刊行されたデビュー作『「差別はいけない」とみんないうけれど。』(平凡社→朝日文庫)は「紀伊國屋じんぶん大賞」の2位にランクインしました。でも、令和人文主義のメンバーには数え入れられていない。そのことについて同書文庫化記念のトークイベントでなかばジョーク気味に愚痴るところも目撃しました(笑)。
綿野恵太:いやあ、ぼくもブームに乗って小銭を稼ぎたかったんですが……(笑)。それぞれのお仕事を拝見させていただいて、まあ入らないだろうなと納得しましたが。
――令和人文主義についてどういう印象を持っていますか?
綿野:谷川嘉浩さんによる朝日新聞の記事で初めて知りました。見出しをチラッと見て「また新聞記者が適当な記事を書いているな」と思ったら、谷川さんご自身がおっしゃっていて、「ええー、ただの仲間褒めやん」と最初は思ったのですが、記事をよく読んでみると、谷川さんの問題意識にはすごく共感しました。いま、この情報環境のなかで「人文知」をどう届けるのか。その「最適解」の一つが「令和人文主義」的なやり方なのだ、と。「イズム」というよりは「トレンド」として考えれば、それぞれバラバラな人たちの共通点も見えてきたし、ブームは終わっても令和人文主義的なものは今後広がっていくのでは、と。
――前提となる情報環境というのはどういうものでしょう。
綿野:すべての言葉がフラットになる場ということです。えらい大学の先生の言葉も、匿名のネット論客の言葉も一緒に並べられ、いいねやシェアで数値化されてしまう。知が持っていた権威がむかしほど通用しない。そのせいで、人文知をめぐる悪循環が起きています。
たとえば、SNSのフェミニズムや男性性についての議論を見ればわかりやすい。リベラル系の大学の先生がなにか発言すると、ネット論客をはじめとした有象無象にボコボコに叩かれる。最初は対話を心がけていた先生たちも疲れてしまい、「アカデミズム的に正しいから正しいんだ」と権威主義的に押し付けようとする。すると、「上から目線でえらそうだ。知的マウンティングだ」とさらなる反発を受ける……。
こうした状況を若い世代は敏感に感じ取っている。専門知を届けようとすれば、令和人文主義的に「知ることって楽しいんですよ」と押し付けがましくなく、ユーザーの「自己満足」的な関心を認めて、学びの大切さを説くしかない。
かといって、読者に追随するようなフラットな関係性が良いわけでもない。令和人文主義の特徴は「反アカデミズムではない」ことでした。決して反権威ではなく、むしろ知的権威をうまく利用する。陰謀論やフェイクニュースがあふれるネットではすぐに埋れてしまうので、自分の言葉の品質保証のためにアカデミズムは大切にするわけです。
上からでもない。横並びでもない。紀伊国屋じんぶん大賞2026を受賞された、松本卓也さんの『斜め論』(筑摩書房)で言われていた「斜め」の関係性としての専門知。それが、令和人文主義なのかな、と。
――綿野さんは令和人文主義と共通点を持ってもいると思います。綿野さんは『「差別はいけない」とみんないうけれど。』文庫版の増補部分で「本の良いところは、人を孤独にさせることだ」と書いています。これは、たとえば三宅香帆さんの『考察する若者たち』(PHP新書)で、「報われ最適化から抜け出すためのコツ」として「本や雑誌を読む」を挙げたりしていることとつながるのではないでしょうか。また、『みんな政治でバカになる』(晶文社)では吉本隆明の「大衆」や丸山眞男の「亜インテリ」の議論を取り上げて、批評がマジョリティに語りかけるとはどういうことかを考えています。これは専門知の外にある「会社員」に語りかけようとする令和人文主義の定義とも関係しそうです。
綿野恵太『みんな政治でバカになる』(晶文社)綿野:たしかに「下部構造」というか、同じ情報環境に生きているので、近い発想になるのかもしれません。
でも、ぼくが慣れ親しんだ日本の文芸批評は「アカデミズムを尊重する、専門知と連携する」と言わないかな。反アカデミズムまでは行かなくても、批評はアカデミズムと緊張関係にありました。最近では柄谷行人が大学の先生に持ち上げられていますが、ぼくが大学生の頃はゼミで名前なんて出せなかった。「はあ?」みたいな。それは東浩紀さんも同じでした。
あと、令和人文主義はポジティブですよね。否定しない、というか、ネガティブな感じをうまく隠している、というか。これは単にエビデンスのない印象論で、ぼくの陰謀論なんですけど「みんなが本を読む社会は良い社会なんだ」と思っているのではないか。出版業界的にはありがたい話だけど、やはりそれはナイーブすぎるんじゃないか、と。本読みすぎると不幸になりますし、良い社会にはならんですよ。
批評における「父殺し」と「母殺し」
――令和人文主義のなかでも、とくに三宅香帆さんは紅白歌合戦の審査員を務めるまでメジャーな存在になりました。彼女の活躍や著作についてはどう見ていますか?
綿野:彼女は文芸評論家であり、たとえば『娘が母を殺すには?』(PLANETS)はしっかり作品を分析する本ですし、昨年の『考察する若者たち』にもコンテンツの分析があります。ただ、やはりこれまでの日本の「批評」のノリとはちがう気がしますね。
『考察する若者たち』と宇野常寛さんの『ゼロ年代の想像力』(ハヤカワ文庫)を比べるとわかりやすい。どちらも、東浩紀的な批評の乗り越えを目指しています。
『考察する若者たち』では東浩紀さんの仕事が参照されています。「萌えから推しへ」というテーマでは『動物化するポストモダン』。「ループものから異世界転生へ」では『ゲーム的リアリズムの誕生』。あと、あまり必要性が感じられないのですが、「メディアからプラットフォームへの章」では『一般意志2.0』からの引用もある。この点、東浩紀の批評にあえて言及しているわけです。
でも、宇野さんの『ゼロ年代の想像力』のようなバチバチの対決姿勢がないんですよね。新しい批評家がデビューするときは、先行世代の批評家への批判が必ずある。宇野さんに批判された東さんも、デビュー作『存在論的、郵便的』(新潮社)では柄谷行人さんの『探求』(講談社学術文庫)を批判しています。
つまり、日本の批評は「父殺し」なんです。これは残念ながら批評の書き手が男ばかり問題と関わると思いますが、良くも悪くも、先行世代の価値観と対決するなかで、新しい価値観を打ち立てる動きがあった。
ただ、『考察する若者たち』は父殺しが希薄なんですね。「平成は東浩紀、令和カルチャーはちがう」みたいな感じで、話がすんなり進んでいく。元号をうまく使い分けて、天皇という大いなる父を利用しているせいかと思ったのですが、それもちがうかなあ、と。
『娘が母を殺すには?』というお仕事があるように、三宅さんが取り組んでいるのは「母殺し」の問題なんですよね。
――「父殺し」のほうで言えば、綿野さんの『「差別はいけない」とみんないうけれど。』は、絓秀実さんの「二重の闘争」を自分なりにやったものだともトークイベントで語っていました。『絓秀実コレクション2 二重の闘争』(blueprint)にもエッセイを寄稿されています。
『絓秀実コレクション2 二重の闘争──差別/ナショナリズム/1968年』(blueprint)綿野:いやあ、ぼくは絓秀実を「父殺し」できるほどの書き手ではないですし、絓さんの面白いアイデアを商業利用させていただいただけで……。
とはいうものの、そのときどきでシーンを支配する「父」としての絶大な権威がいる感じは確かになくなりましたね。「小林秀雄、江藤淳、吉本隆明、柄谷行人、蓮實重彦を倒すぜ」みたいなノリはない。そもそもゼロ年代の東浩紀VS宇野常寛も「あえてやってる感」が強かったのを覚えています。
2024年に出た入門書『批評の歩き方』(人文書院)のタイトルが示すように、批評の世界もフラットになってしまったのかな。フラットだから倒す必要もない。それぞれが好きな書き手を「批評家」にすればいい。みんなちがってみんないい世界です。
――「父殺し」に対して、三宅さんの言う「母殺し」とはどのようなものなのでしょうか。
綿野:一言でいうと、娘が自分に一体化してくる母をどう切り離すかという話です。
あえてわかりやすいモデルにしてお話しすると、父―息子のタテ関係は「言うことを聞かないとぶん殴るぞ」です。父は上から押さえつける。権威や暴力によって自分の価値観を押し付けて、息子の行動を支配する。息子は新しい価値観を実現するために、古い価値観=父を倒す必要があった。
たいして、母―娘のヨコ関係はやさしくて寛容です。しかし、そのぶん、「あなたの幸せを思って言っているの……」と娘の内面まで容赦なく包み込んでしまう。「こうなってほしい」という母の願望を投影された娘は母の期待に応えようとする。
父―息子のタテ関係は強権的で暴力的ですが、息子にはまだ自由の余地がある。父の命令に従いつつも、心の中ではあっかんべーができた。しかし、母―娘のヨコ関係は内面からの支配です。母娘の密着した共依存関係のなかで、娘は自発的に行動するように仕向けられるわけです。
いまは父的な暴力性に敏感な社会です。一見、自由に見えますが、母的な支配は強まっているのではないか。「あなたの健康を思って…」「あなたの幸せを願って…」「あなたを傷つけないために…」とあらゆるリスクを先回りして、良かれと思って、私たちの自由を封じ込める。強制されている意識がないまま、母=社会に自分の考えを乗っ取られている。
となると、「自分の内にある母=社会の欲望をいかに相対化するか」という母殺しの問題が浮上するわけです。これは「他人の言葉に乗っ取られずに、自分の『感想』を持つのが大事だ」という三宅さんの批評観にもつながります。
――その問題意識は綿野さんも共有していますか?
綿野:はい。でも、欲望の捉え方が違う気がしますね。令和人文主義は「欲望オチ」が多いんですよね。三宅さんや谷川さんがそうです。「自分の欲望や衝動に気づいて大切にしましょう」みたいな。自分の欲望にしたがうことが母の欲望から脱出する糸口だからです。
本を読むことはもちろん、好きを言語化すること、モヤモヤした気持ちに向き合うこと、趣味を楽しむことも、その欲望に気づき育てるプロセスとして重要視される。ただ、『人生のレールを外れる衝動のみつけかた』(ちくまプリマー新書)というタイトルのわりには、そんなにレールから外れてない。社会順応的に見えるんですよね。
この「欲望オチ」は千葉雅也さん『勉強の哲学』(文春文庫)の「欲望年表」や國分功一郎さん『責任の生成』(熊谷晋一郎との共著、新曜社)の「欲望形成支援」などの影響だと思います。しかし、フランス現代思想が参照した精神分析的な「死の欲動」や「享楽」といった問題はどこに消えたのかな、と。
欲望や衝動が持つヤバい部分に触れそうなのに、踏み込まないままで終わってしまう。もちろんご存知ないわけがないので、社会のマスに届けるために深く追及しないほうが無難だと判断されたのかな。
ツアーガイドの語り口による「観光客の哲学」
――ほかに令和人文主義の特徴について感じることはありますか?
綿野:小峰ひずみさんは令和人文主義のことを「正社員様の哲学」と批判しましたが、ぼくは「観光客の哲学」だと思う。『スマホ時代の哲学』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)で谷川さんは「哲学という未知の大陸への観光案内」する「観光ガイド」として語りかけている。『考察する若者たち』でも「考察をめぐる旅路」というフレーズが出てきますし。
つまり、「斜め」の関係性を具体化すると、観光客を案内するツアーガイドやナビゲーターになるんですよね。観光客相手に上から目線で教えたりせず、難所にさしかかれば隣で励ましてくれる。でも、常に一歩先を歩いてアテンドしてくれる観光ガイド。
ツアーガイド的な語り口は今後広がる気がします。たとえば、令和人文主義の世代ではないですが、新書大賞2026を受賞した臨床心理士の東畑開人さん『カウンセリングとは何か』(講談社現代新書)も、「カウンセリング」という「ふしぎの国」への「旅行」に喩えられていました。
――令和人文主義を「観光客の哲学」というとき、それは東浩紀さんの『観光客の哲学』(ゲンロン)で言われていることとは重なりますか?
綿野:哲学や批評の読者を広げようとすれば、観光客しかない。早い時期から東さんは察知していたのでは? 生活も安定して時間やお金に余裕がある。ふらっと旅行に来て博物館に入って「こんな歴史があったのか」と驚く知的好奇心もある。そういう消費者でなければ、人文知のお客さんになってくれない。
――ツアーガイドのような語り口の本が多くなるのはなぜなのでしょうか。
綿野:いまの読者は「否定性」を嫌がるからだと思います。ネットは見たいものだけ見れるし、ショート動画でインスタントな快楽を手に入れられる。他者や偶然性といった自分がコントロールできないものにすごく拒否感がある。かつての「自己否定」が「アップデート」と呼び変えられるポジティブな時代です。
たいして、本を読むことは否定性の塊です。知識に触れれば、自分の無知を思い知らされるし、これまでの自分の生き方や常識が否定されることもある。スッキリ解決しないモヤモヤした気持ちも残り続けます。
『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』(集英社新書)的に言えば、「ノイズ」ですよね。それこそ「ノイズ」を嫌がる人たちに本=「ノイズ」を届けようとすれば、なるべくポジティブを装いつつ、「面白いですよ?ぜひやってみましょうよ?」という腰の低い語り口で、否定性を忍び込ませるしかない。
――なるほど。最後に綿野さん自身はこの状況に対してどのようなスタンスで活動していくべきと思いますか。
綿野:やはり、文学や思想は本質的に不快なものだと思います。それまで抱いていた常識が破壊される否定性にこそ醍醐味があるとも言える。
ぼくの同世代で令和人文主義に入れてもらえない書き手として、木澤佐登志さんや樋口恭介さんがいます。『闇の精神史』(ハヤカワ新書)や『異常論文』(ハヤカワ文庫)といったタイトルをみると「悪ノリ派」だと思うんですよね。「文学や思想ってやばいですよw」とネタとして誇張することで、否定性をポップにする。ぼくも悪ノリ派に近い感性があるんですが、文脈をおさえたひとにしか伝わらなかったのかも、と令和人文主義を見て反省しました。
真面目な話に戻すと、いまの情報環境の「最適解」なので、たとえブームは終わっても令和人文主義的なものはどんどん広がると思います。ただ、そのとき、ツアーガイド的な語り口で扱える知って限定されると思うんですよね。普通に考えて、観光客としての生き方、そんな知の消費の仕方に「否」を突きつけるような人文知は歓迎されない。階級闘争や資本主義といった問題でしょうか。マーケティング的に社会のマスにアプローチすればするほど、この問題は根深くなると思います。
まあ、ぼくも在野の書き手ですし、「下部構造」も同じなので、同じ矛盾を抱えています。とはいえ、文学や思想のヤバさに賭けるというのは捨てずにやっていきたいですね。やはり文筆業の人間の責務として「他人が嫌がることをやる」のも大事なのではないか。まあ、これも絓秀実さんからのパクリですが。
編集者兼ライター。野球、お笑い、音楽、映画、思想が好き。関西育ちの巨人ファン。