ノルウェーの働き方5つの心得、アーベル賞授与のノーベル科学文学アカデミーの現場から(鐙麻樹)
「数学のノーベル賞」とも呼ばれるアーベル賞に、日本人として初めて京都大学の柏原正樹特任教授が選ばれた。実はその発表・授与を担うノルウェー科学文学アカデミーで、筆者はコンサルタントとして数週間働いていた。
誰が受賞するかは厳格なトップシークレットであり、「日本人がアカデミーで働いている」ことも外部には発表まで非公開とされていた。
アーベル賞を受賞した柏原正樹特任教授 撮影:Peter Badge / Typos1 / Abel Prizeアカデミーのコミュニケーションチームの部屋で仕事中 筆者撮影今回はこの職場体験を通して見えた、ノルウェーの働き方とワークライフバランスの特徴を5つの視点から紹介したい。
1.「優先の鬼、プリオリテーラー」になる。毎日の会議で問われるのは「何をやらないか」
アカデミーでアナウンスやインタビューの撮影をしていたプロダクションチーム 撮影:Eirik Furu Baardsen / DNVAノルウェー科学文学アカデミーでまず驚かされたのは、「何を優先するか?」という問いが、日々の会議や会話の中で何度も繰り返されていたことである。
- 「それで、私たちはどれをまず優先するの?」
- 「優先度が低いタスクはどれか?」
このような言葉を、1日に何度も耳にした。
「優先する」はノルウェー語で「プリオリテーレ/å prioritere」という。会議で何度も耳にした言葉から、筆者は「何を優先して・しないか」に徹底する人を「優先の鬼、プリオリテーラー」と名付けたい。
2.ほどほどに、「ゴット・ノック」の考え方
北欧の働き方を日本と比較するとき、筆者はしばしばこう説明する。
- 日本では120%以上の成果を目指し、「念のため」「一応」といった理由から、実際には起こる可能性が低いリスクにまで備えようとする傾向がある。業務中には細かい質問が繰り返され、上司や関係者との報告・連絡・相談(いわゆる「ホウレンソウ」)が増え、残業に直結することも。
- 一方、北欧では(日本の一部の人から見ると)60~80%ほどの段階で提出し、必要に応じて臨機応変に修正を重ねる。「good enough(十分よし)」という考え方で、ノルウェー語では「godt nok(ゴット・ノック)」「bra nok(ブラ・ノック)」という表現がよく使われる。責任は分配され、上下関係よりも平等が重視されるため、決断も早く、家族や私生活を大切にする文化から、帰宅時間も早い。
日本のように、優先度の低いタスクにも丁寧に対応してしまう国民性は、結果的に労働時間を延ばしている側面がある。北欧では「手をつけない」という選択もあり、そこに「たらい回し」「返事がない」などの文化的な違いを感じる日本人も多いかもしれないが、重要なタスクはしっかりと遂行されている。
アカデミーでの同僚のウンニさんは「全員がフルタイムで働いているわけでもないし、『全部やる』こと自体が無理」と語っていた。だからこそ、「何を後回しにするか=しないか」の会話は極めて重要なのである。撮影:Marina Tofting / Det Norske Videnskaps-Akademi3. 信頼こそが、働き方を変える
北欧の働き方を根底で支えているのが「信頼(tillit/ティリット)」である。これは北欧社会における基盤であり、「民主主義」「透明性」「ジェンダー平等」と並んで、あらゆる仕組みに浸透している価値観だ。
筆者は以前から、「日本や米国は競争社会であり、他者との比較や警戒心が強く、信頼が生まれにくい。一方、北欧は小国としての連帯意識から、分野横断的な協働(tverrfaglighet/トヴェルファグリヘート)を重視し、情報を開示し合いながら信頼を築くことで、ストレスやタスクを減らしている」と考えてきた。
その信頼は職場の至るところにあった。
アーベル賞発表を前に緊張が高まる中でも、同僚たちは「私たちは互いを信頼しなきゃ!(Vi må stole på hverandre:ヴィー・モー・ストーレ・ポー・ヴァーランドレ)」という言葉を自然に交わしていた。信頼がなければ、確認作業や承認プロセスが増え、タスクも労働時間も肥大化する。
筆者が初日に「労働時間の報告はどこに記録すればいいですか」と尋ねたところ、プロジェクトリーダーのポールさんは少し驚いた顔で「最後にまとめて教えてくれればいいよ。あなたのことは信頼しているから(Jeg stoler på deg:ヤイ・ストーレル・ポー・ダイ)」と言った。
このような感覚があるからこそ、北欧ではテレワークの普及率も高く、物理的に一緒にいなくても仕事が回るのだと実感した。
4. 「休む力」が、生産性を高める
歴代の受賞者の写真が飾られたアーベルの間でランチ。ごはん中は仕事と関係のない話で盛り上がる 筆者撮影柏原氏の受賞が発表された翌日、アカデミー内の雰囲気は明らかに緊張から解放され、ほっとした空気が広がっていた。極度の機密性が求められる業務が終わったあとの緩和は、まるで季節が変わったかのような静けさと安堵だった。
筆者が所属していた広報チームのリーダー、マリナさんがウンニさんの席に近づき、「〇月はバカンスをとってもいいかしら?」と尋ねたところ、「どうぞどうぞ、ぜひ取ってきて!」と即答していた。まさに「しっかり休む」「無理して働かない」という北欧の価値観が会話に現れていた。
筆者自身、翻訳業務で集中力が切れた際、ウンニさんに散歩に誘われたり、「今日はもう帰っていいよ~。明日、頭がクリアになった状態でまた取り組もう」と声をかけてもらったこともある。16時あたりになると「もう帰る時間だよ」ともリマインドされることも多かった。
日本では10時間以上働く人も珍しくないが、北欧では「集中力が保てる時間に成果を出す」ことが重視されており、数時間でも十分な成果が出れば退社してもよいという空気がある。これは「残業・長時間労働=努力」ではなく、「成果を出す=プロフェッショナル」とする価値観の違いでもある。
ランチ中は新聞に掲載されているクイズをみんなで解くというアカデミー独特の伝統もある 筆者撮影5. 自由には責任が伴う
北欧の中で特に「自由」という言葉を愛しているのはデンマーク人だと筆者は前から思っている。すると広報チームのリーダーであるマリナさんは、ノルウェー版の「職場での自由と責任」についてタイミングよく語ってくれた。
白いスーツを着ているのがマリナさん、右側にいるのはシグルン・イェールロヴ・オースラン研究・高等教育大臣(労働党)。アカデミーは政府の代わりにアーベル賞の運営を行っているので、館内を大臣らが行き来する機会は多い 撮影:Munir Jaberノルウェーでは労働時間が決められており、アカデミーでは週37.5時間だ。
アーベル賞のほかにも、科学賞であるカブリ賞の授与なども行っているため、時差がある国との連絡が多い。そのため何度も夜にミーティングやメールの送信をすることにもなる。協定時間を超過した場合は、代休を取るか、残業代が支払われる。
「私たちの仕事には多くの自由がありますが、自由には責任が伴います。言い換えれば、私たちは仕事が納品されることを期待しています。誰かが夕方から自宅でセッションを受けても、仕事が納品されればそれでいいのです」
「私たちはクリエイティブな業界にいるので、もっとやりたい、もっといいものを提供したい、もっと仕事を増やしたいと思いがちです。時差の対応で夜の仕事も多いので、勤務時間にとても融通を利かせなければいけません。その代わり、私たち仕事をとても楽しんでいます!」
「私たちには多くの自由と多くの責任があり、必要なときにはみんなが協力してくれます」
ノルウェー科学文学アカデミーでの勤務を通して、筆者はこのような働き方の姿勢を実感した。
- 社員が無理しないように、タスクの優先度を常に見直す
- 100%「以上」を求めすぎず、「ゴット・ノック(godt nok)」「ブラ・ノック(bra nok)」で満足し、柔軟に対応する
- 信頼を前提とし、無駄な確認作業や管理を減らす
- 残業よりも、休養で脳を休ませる
- 自由には責任が伴う
受賞者発表前の緊迫した職場でも、「何を優先するか」が最後まで会議で主要テーマだったことに、強い印象を受けた。これからは筆者も、「優先度の低いものには手を付けない力」を意識的に鍛えていきたいと感じている。
※メディア関係者へのご案内柏原正樹さんのアーベル賞授賞式は5月にオスロで開催予定です。現地での取材を検討されている方は、ノルウェー科学文学アカデミーの公式ホームページに掲載されている日本語資料「よくある質問」および「アーベル賞ウィークについて知っておくべきこと全て」をぜひご参照ください。日本国内ではまだ報道が少ない「数学のノーベル賞」と呼ばれる所以や選考の背景についても、日本語で詳しく読むことができます。