首里城に眠る地下壕 80年前、そこで日本軍が下した重要な決定とは

第32軍司令部壕の内部。第2坑道から続く迂回(うかい)坑道入り口=那覇市で2024年5月12日(代表撮影)

 第二次世界大戦末期の沖縄戦で日本軍の司令部として使われた壕(ごう)が那覇市の首里城地下にあり、沖縄県が内部の公開を計画している。

 9万人超の一般住民が、日米両軍の地上戦に巻き込まれて死亡したとされる沖縄戦。

 司令部壕は80年前の1945年5月下旬、住民の命運を左右することになる軍の重要方針が決まった現場でもある。

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 丘の上にある首里城では2019年の火災で焼失した正殿の復元工事が、26年秋の完成を目指して着々と進む。

 その地下を貫くのが、沖縄戦時に日本軍第32軍が司令部を置いた壕だ。総延長は約1キロに及び、五つの出入り口(坑口)があった。

日本軍第32軍の司令部壕=1945年、米軍撮影(沖縄県公文書館所蔵)

 第32軍は1944年12月から、学徒らを動員し、この壕を掘らせた。

 内部には将校室や医療室、通信隊室など多くの部屋が整備され、牛島満司令官らが米軍の沖縄本島上陸直前の45年3月下旬から作戦を指揮した。

 壕内には1000人以上の兵士らがいたという。

 戦後の60年代以降、那覇市や沖縄県などによる調査が複数回実施されたが、壕内は落盤が激しく、保存・公開は見送られてきた。

第32軍司令部壕の内部。崩落した土砂でふさがれている箇所もある=那覇市で2024年5月12日(代表撮影)

 しかし、19年の首里城火災とその後の復元工事をきっかけに、司令部壕の保存・公開を求める声が高まり、県は20年度に有識者による検討委員会を設置。改めて壕内などを調査し、検討委員会の提言を基に25年3月、壕の坑口周辺や内部を26年度から順次公開する基本計画を策定した。

 壕の存在が重視されるのは、そこが日本軍の中枢施設だったという理由だけではない。

 県史によると、45年5月21日、米軍が首里に迫る中、第32軍司令部は指揮下の各兵団の参謀長らを壕に集め、首里にとどまって米軍に決戦を挑むか、沖縄本島南部に撤退して抗戦を続けるかを討議させた。

 既に戦いの雌雄は決しているという状況下で意見は割れたが、本島南部への撤退論が大勢を占めた。

沖縄戦での米軍侵攻経過

 討議を主宰した第32軍の八原博通(やはらひろみち)・高級参謀は長勇(ちょういさむ)参謀長に報告した。

 「本土決戦を少しでも有利ならしめるためには、あくまで抗戦を続けるべきである」。沖縄戦を生き残った八原氏は戦後に出版した手記「沖縄決戦」でそう明かす。

 牛島司令官は翌22日、「南部撤退」を決定。5月27日、首里を離れて本島最南部の摩文仁(まぶに)(現・糸満市)に移り、日本軍は6月23日まで組織的戦闘を続けたとされる。

 日本本土への米軍侵攻を遅らせようと下した日本軍の決定で、南部は避難していた住民と軍が混在する戦場となった。弾雨の中、多くの人々が逃げ場を失い、命を落とした。

 沖縄戦の死者は日米合わせて約20万人で、うち9万4000人(推計)が一般住民だ。

第32軍司令部壕の内部。沖縄戦当時のものとみられる瓶類=那覇市で2024年4月25日(代表撮影)

 司令部壕の保存・公開に向けた県の基本計画はこう指摘する。

 「第32軍司令部壕は、住民を巻き込み熾烈(しれつ)な戦闘が展開された沖縄戦の実相を知る上で極めて貴重な戦争遺跡である。その活用を行うことで、多くの人々の考えるきっかけとなり、沖縄戦の歴史的教訓を次世代へ正確に継承していくことにつながる」

第32軍司令部壕の第5坑口=那覇市首里金城町で2022年5月31日午前10時13分、喜屋武真之介撮影

 県は司令部壕の第1坑口と第5坑口について、26年度末までに周辺を見学できる遊歩道などを整備。最も保存状態の良い第5坑口から約60メートル奥までの坑道内も30年度末までに公開することを目指す。

 地上には展示施設を建設し、施設から第5坑道に下りることができるエレベーターの設置も計画している。

 安全対策の難しさから公開できるのは壕内の一部にとどまるとみられるが、非公開の区間についても仮想現実(VR)映像などで内部の様子を知ることができるようにする。

 壕の保存・公開を長年求めてきた琉球大名誉教授の垣花(かきのはな)豊順(ほうじゅん)さん(91)=那覇市=は「沖縄戦であれだけ多くの人が犠牲になった大きな要因は、司令部壕での決定にある。沖縄の願いである『命(ぬち)どぅ宝(命こそ宝)』や、近隣諸国との友好などを学ぶ場にしなければならない」と指摘する。

 垣花さんらは南部撤退などが議論された壕の中枢部の公開も求めており、「沖縄の将来に関わる大事なこと。焦ることなく慎重に進めてほしい」と話した。【喜屋武真之介】

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