大阪:<大阪マラソン2025>思いと共に駆け:地域ニュース : 読売新聞

 24日に大阪市内で開催された「大阪マラソン2025」(読売新聞社共催)では、市内外から多くのランナーたちが出場した。人生の困難を克服しようと走る人、亡き家族や友人との絆をマラソンに見いだす人。それぞれの思いを胸に秘め、ゴールの大阪城公園を目指した。

歌声と走りに力得て…摂食障害と闘う阪井さん

 富田林市の阪井真実さん(33)は10年以上にわたって摂食障害に苦しんだが、走ることで少しずつ健康を取り戻し、この日、3回目の完走を果たした。今も食事量が不安定になることはあるが、「走ると元気になれる。明日からいつもの日常が始まるけれど、また走り続けたい」と満足そうに語った。

宮本浩次さんのライブTシャツを着て走った阪井さん(大阪市中央区で)=近藤誠撮影

 20歳頃に始めたダイエットで摂食障害になった。まともな食事を取らず、体重は29キロまで激減。その反動から、1週間で10キロ増えるほどの過食になった。

 「痩せないと」と思い詰めた。外出が嫌になって定時制高校をやめて、10年近く自宅に引きこもった。命を絶つつもりで、衣服を捨てたこともあった。

 ある歌に、もう一度生きる勇気をもらった。エレファントカシマシの宮本浩次さんのソロ曲「冬の花」。「悲しくって泣いてるわけじゃあない 生きてるから涙が出るの」。その歌詞に突き動かされた。

 「生の歌声を聞きたい。外出できるようになりたい」。過食を抑え、体重を管理できるようにと5年前にランニングを始めた。1年ほどでライブ会場に行けるようになった。「もっと走ってみよう」と意欲が湧いた。

 大阪マラソンには2023年の大会から参加し、2回とも完走した。この日、宮本さんのライブTシャツを着た阪井さんは、両親の声援を背に力強く走った。苦しい局面も、イヤホンから聞こえる宮本さんの歌で自らを鼓舞した。

 「両親はいつも仕事を休んで観戦してくれ、感謝の気持ちでいっぱい。これからも前向きに頑張って、またライブに行きたい」。この日一番の笑顔がはじけた。

友悼み 約束胸に完走…「いつか一緒に」堺・石川さん

 「いつか一緒に走ろう」――。堺市堺区の会社員石川克己さん(57)は、昨年に病でこの世を去った友人、真野仁志さん(享年56歳)との約束を胸に走った。

完走し、笑顔を見せる石川さん(大阪市中央区で)=近藤誠撮影

 石川さんと真野さんは子供服メーカーに同期で入社した。仲が良く、石川さんが他の会社に転職し、真野さんがイタリア料理店経営に転じた後も交流を続けた。

 2023年10月、真野さんからLINEが届いた。「食道がんになってリンパ節にも転移。お店を休んでいます。あと10年、15年、フライパン振りたかった」。文面に無念さがにじんでいた。

 翌年2月の大阪マラソン。石川さんはスタート地点にいた。「ちょっと走ってくるわ」。ランニングが趣味だった真野さんにLINEを送った。

 「楽しんでやー いつか、一緒に、走ろう」。療養中の真野さんから返信が届いた。「了解」と返して出走。「無事完走できました ありがとうございました」と報告した。約4か月後、真野さんは帰らぬ人となった。

 「友人との思い出を胸に全力で走りたい」。今回の大阪マラソンのエントリーシートに、そう記入した。疲労と寒さで両脚がつりそうになっても、あきらめなかった。

 「一日一日、生きていることが奇跡なんだと、真野ちゃんが気づかせてくれた」と語った。

亡き息子の写真とゴール…福島・二井さん

 大阪市福島区の看護師二井千里さん(54)は、6年前に18歳で命を絶った次男翔太さんを思いながら走りきった。ゴール後、ポーチにしまっていた翔太さんの写真を手に「頑張ったよ。これからも一緒に走ろうね」と声をかけた。

ゴールする二井さん(大阪市中央区で)=原田拓未撮影

 二井さんは、翔太さんが小学生だった2012年にマラソンを始めた。翔太さんは中学校で陸上部に入り、二井さんと一緒に市民マラソンを走った。

 高校入学後、翔太さんの様子が変わった。2年生の途中で学校に行けなくなり、通信制の高校に転校。心療内科でうつ病と診断されて入院したが、19年3月に亡くなった。

 その年、大阪マラソンの開催日の12月1日は翔太さんの誕生日だった。「翔太」と書いたゼッケンを付けて走った。その後も、各地の大会に出場しては、完走メダルを翔太さんの写真の前に供えた。

 4時間16分22秒でフィニッシュした二井さんは穏やかな表情で語った。「翔太が生きていたら24歳。大阪マラソンに出ていたら、私より速かったかな」

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