東日本大震災:100歳の語り部「この津波の恐ろしさは、私が伝えていくんだ」…泥の中から見つけた語り部のバッジ : 読売新聞

 福島県新地町に「 小鯨(こくじら) 」という地区がある。海岸から約4キロ。死んだ鯨が津波で打ち上げられたのが由来とされる。

身ぶり手ぶりを交えて熱く語る小野トメヨさん(2月15日、福島県新地町で)=武藤要撮影

 同じ町に暮らす語り部の小野トメヨさん(100)も、小鯨の由来を聞いたことはあった。だが、14年前まで人前で津波を語ることはなかった。

 東日本大震災の津波は、町をのみ込み、家々を破壊し、多くの尊い命を奪った。トメヨさんは百寿を迎えた今も、語り部を続ける。あの日の教訓を語り継ぐために。

 同県飯豊村(現・相馬市)の農家に8人きょうだいの四女として生まれ育った。父・ 末治(すえじ) さんから民話や昔話を聞くのは、いつも囲炉裏のそばだった。人を化かすキツネ、土産物を盗むカッパ――。本当にいると思わせてくれるような話しぶりが 幼心(おさなごころ) をくすぐり、想像が膨らんだ。

 終戦の前年、結婚を機に20歳で新地へ。1女2男の子育ての傍ら、民話の本や町史の民俗編を読みあさった。「あら、こんな話があるの!」。そんな瞬間が楽しかった。

 語り部デビューは遅咲きの76歳。2001年開催の地方博覧会「うつくしま未来博」で、地域の魅力を伝える語り部の募集案内に目が留まり、「ここで語りたい!」と手を挙げた。2年前に夫・与一さんを失い、さみしさを紛らわせたい思いもあった。

 舞台での緊張は一瞬で、自分の語りに聴衆が耳を傾けてくれる楽しさに魅了された。その後も、郡山市を拠点に仲間と活動を続け、レパートリーは民話や昔話だけで約50に上った。

 だが、地震や津波について語ることはなかった。「震災が起こるまで津波の怖さを理解していた人は少なかった。私も含めて」

 11年3月11日。海岸から約1キロの自宅で経験したことのない揺れに見舞われた。「まさか津波が来るとは思わなかった」。チリで起きた津波が三陸に押し寄せたと聞いたことはあったが、新地町での被害は記憶になかった。「小鯨」が脳裏をよぎることも。

 念のため近くの町役場に避難すると、「3階に上がれ!」と叫ぶ声が聞こえた。必死に階段を上り、自宅のある方角に目をやると、津波が一帯をのみ込んでいた。

「東日本大震災」特集へ

Page 2

 自宅を失い、仮設住宅でふさぎ込んでいた6月、ふと自宅跡を訪れた。泥の中に夫の 位牌(いはい) と語り部の衣装の 絣(かすり) が埋もれていた。棒で絣をつり上げると何かに目が留まった。所属する語り部団体のバッジだった。

自宅跡で見つかった語り部団体のバッジ(小野トメヨさん提供)

 胸がジーンとした。「この津波の恐ろしさは、私が伝えていくんだ」。86歳の心が奮い立った。

 その年の8月、津波の爪痕が残る宮城県南三陸町を訪れた。「みやぎ民話の会」主催の行事に招かれ、語り部として初めて、あの日の出来事を語った。

 「お空まで届くくらい、あっちもこっちもがれきの山」「何もかもねえ、さらって持っていったんですよ、津波が」――。自身の経験談に、地元の被災者も興味深く耳を傾けてくれた。「一人ひとり違う被災や避難を伝えることに意味がある」。そう実感した。

 被災地の語り部活動は、曲がり角にさしかかっている。トメヨさんが活動していた郡山駅の民話コーナーは16年、資金不足や高齢化により閉業した。「語らないと経験は消えてしまう」。自身も遠出は難しくなり、危機感は小さくない。

 そんな中、新地町に21年、新たな語り部の拠点「おがわ観海堂」ができた。作ったのは親戚の小野俊雄さん(74)。「語り続けるトメヨさんの存在は大きい。地域の話を次世代へとつなぐ場所を守りたい」と築約60年の旧母屋を改築した。囲炉裏のある会場で、トメヨさんも毎月出演する。

 「むかーし昔ね。ずーっと昔」。2月中旬、おがわ観海堂に張りのある声が響いた。トメヨさんが披露したのは昔話「食わず女房」。「食事をしない」と言って嫁入りした働き者の女性。その正体は「髪ワッとしたら、頭の真ん中におっきな口があっぺな」。目をカッと開き、身ぶり手ぶりも交えた抑揚のある語りに、聴衆は思わず息をのんだ。

 約10分の演目を終え、トメヨさんの顔がほころんだ。「昔話も津波も、いくつもあるからね。伝えたい話が」(柳沼晃太朗)

「東日本大震災」特集へ

関連記事: