だから国民は「愛子天皇」を願ってしまう…「堂々たる成年会見」でも悠仁さまに厳しい視線が注がれる本当の理由 政治家はいつまで皇位継承問題から逃げるのか
写真=時事通信フォト
成年に当たり、初めて記者会見をされる秋篠宮家の長男悠仁さま=2025年3月3日午後、東京・赤坂御用地内の赤坂東邸
3月3日、秋篠宮ご夫妻の長男の悠仁さまは、成年にあたってはじめての記者会見に臨まれた。
「まず御質問へのお答えに先立ちまして」と、悠仁さまは口火を切った。宮内記者会から事前に出された第1問目は、「成年を迎えられたお気持ち」に始まる、いわば定型の質問だった。
これに対して悠仁さまは、「岩手県などで発生している山林火災による被害」を案じるところから話し始めた。災害へのお見舞いもまた、皇族のお決まりではあるとはいえ、18歳、それも、最初の会見と考えると、なかなか落ち着いてできるものではない。
2問目で聞かれた、自身の性格については、「こうして皆様とお話をしていましても、緊張しております」と返している。お見舞いにつづく、みずからの性格への言及から、悠仁さまの人間味を感じた人が多かったのではないか。等身大の若い男性らしい受け答えだと、とらえられたのではないか。
もちろん、これまでご両親の秋篠宮殿下ご夫妻が記者会見などで触れてきた「バッシング」に近い反応もないわけではない。皇位継承順位2位にはふさわしくない、あるいは、「帝王学」が足りていない、といった意見も見受けられる。
けれども、そうした声をふまえてもなお、今回の会見でのやりとりは、これまでの悠仁さまへのイメージを拭い去ってあまりある内容だったのではないか。
「39年前」からの皇室の変化
その理由は、受け答えそのものにだけあるのではない。今回の会見が、男性皇族が成年を迎えてのものであり、父の秋篠宮さま以来39年ぶりという点も、結果としてプラスに作用したに違いない。
たとえば、「好きな女優やアイドル、音楽」についての質疑をみよう。
悠仁さまは、「具体的に申し上げにくいんですけれども」とし、「以前、お父様にお聞きしました」と問いを重ねる記者に向けて、「具体的にどれという、どの曲だったり、どの方というわけではないですけれども、広く音楽を聴いたりすることもございます」とかわしている。
記者からの更問いにあったとおり、「お父様」=秋篠宮さまは、具体的に答えていたのである。1985年(昭和60年)11月29日、成年式を前に行われた初の記者会見で、当時、礼宮殿下だった秋篠宮さまの答えは、次の通りだった。
週刊新潮(2025年2月27日号)も、このくだりを報じていたように、約40年のあいだの変化が、この2つの回答に如実にあらわれている。以前は、皇族が、固有の名前を答えたところで、何も差し支えがなかった。
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さらには、天皇御一家への視線の変化もかかわっている。
平成16年(2004年)の記者会見では、皇后陛下について「雅子の人格を否定するような動きがあったことも事実です」と天皇陛下が悲鳴をあげるほどに、天皇御一家への当たりがキツかった。
愛子さまの昨年の記者会見を絶賛する意見は、インターネット上に散見されるものの、20年ほど前には、とても想像できなかったに違いない。皇室に関する世論は、かくも移り変わり続けている。
今回の悠仁さまの会見を、昨年の愛子さまの姿と比べて、優劣をつける、そんな意図は、私には毛頭ない。
しかし、ちょうど1年をおいておこなわれた、2人の若い皇族による、ともに初めての記者会見を重ねあわせるな、というほうが難しいのではないか。どちらが落ち着いていたのか、とか、皇位を受け継ぐのにふさわしいのはどちらなのか、といった、下衆の勘繰りを禁じるのは無理ではないか。
皇室典範を整備しない限り、悠仁さまと愛子さまの不毛な比較は終わらない。なぜなら、そうした声が渦巻いているとしたら、その責任は、ひとえに政治にあるからである。
根源にあるのは、政治の「思わせぶり」
平成の終わりは、上皇さまが「退位の意向が強くにじんだお気持ちを表明され」たことに始まる。NHKのこの表現にみられるように、天皇は立場上、みずからの地位について率直な思いを表明できない。あくまでも「お気持ち」を、まわりが拝察しているにすぎない。
ただ、このお気持ち表明をきっかけにした退位、そして、令和への代替わりにあたって、皇室典範特例法が定められ、国会では「安定的な皇位継承を確保するための諸課題」を検討する「附帯決議」が衆議院・参議院ともにおこなわれ、有識者会議が設置された。
2017年(平成29年)のその決議から7年以上が過ぎ、平成から令和への代替わりから6年が過ぎようとしている。有識者会議の報告からですら3年以上がたったのに、いまだに「安定的な皇位継承」について意見を集約できていない。
その間に、「愛子天皇」を望む声は高まるとともに、悠仁さまへの世論の風当たりは厳しくなるばかりだった。「安定的な皇位継承」についての検討は、すなわち、「愛子天皇」をはじめとする「女性天皇」、さらには「女系天皇」への道を開くものと期待されたからではないか。
つまり、立法府が、いまの皇室典範が定めている皇位継承順位とは別の可能性を示唆するかのように、世間に思わせぶりな態度をとり続けた。「男系男子のみ」を続けるのか、それとも「男女を問わず長子優先」に変えるのか。結論を出さないからこそ、悠仁さまと愛子さまを比べる声がやまないのではないか。
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天皇陛下は、米国の俳優ブルック・シールズのファンを公言していたし、上皇后陛下は、平成30年(2018年)の誕生日に際しての文書での回答で、英国の作家P・G・ウッドハウスによる探偵小説に触れ、公務を離れたときに向けて「ジーヴスも2、3冊待機しています」とあきらかにしている。
皇族ももちろん、ひとりの人間である以上、好き嫌いがあって当然である。にもかかわらず、「好きな女優やアイドル、音楽」について「具体的に申し上げにくい」と言わざるを得ないところに、いまの皇族、とりわけ、悠仁さまの置かれた立場があるのではないか。
それだけに、つまり、ニュートラルというか無味無臭の答えだったからこそ、その気遣い自体が、悠仁さまの人柄を結果として伝えたとも思われる。「好きな女優やアイドル、音楽」を聞かれて、誰を挙げようと、「バッシング」の種になった恐れが高いからである。
それほどまでに、これまでの悠仁さまをめぐる報道は、厳しいものだった。
写真=iStock.com/brize99
※写真はイメージです
秋篠宮家をめぐる「厳しい報道」
まず、その生まれからして、日本中の注目を集めていた。
2004年、当時の小泉純一郎政権は、「皇室典範に関する有識者会議」を設置する。翌年11月24日に出された報告書は、皇位継承資格の皇族女子や女系の皇族への拡大、さらに、皇位継承順位の長子優先、といった、大きな変更を結論づけた。
悠仁さまが生まれたのは、まさにその翌年だった。国中が祝賀ムードに包まれ、皇位継承をめぐる議論は吹き飛んだのである。
それだけではない。お茶の水女子大学附属幼稚園をはじめ、進学先として、戦後の男性皇族全員が学んできた学習院を選ばなかった。これも、進学のたびに議論を巻き起こした。
とりわけ、筑波大学附属高校への入学以降、「東京大学への進学を希望している」との報道が、週刊誌で相次ぐ。さまざまな尾ヒレというか、噂が飛び交い、まるで、秋篠宮家が一家総出で、ゴリ押しをしようとしているかのような印象すら広まった。
悠仁さまの成長過程が、小室眞子さんの結婚をめぐる動きと重なっていたため、秋篠宮家の教育方針に、批判の目が向けられていたとも言えよう。
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3月10日に衆議院議長公邸で開かれた与野党協議では、各党の意見が割れている様子だけが、あらためて明らかになっただけである。読売新聞によれば、立憲民主党の野田佳彦代表が「まだまだ議論が必要だ」と記者団に語ったとされているが、いったい、いつまで議論を重ねれば良いのだろうか。
その間に、悠仁さまも愛子さまも、着実に歳を重ねている。むろん、いまの皇室典範を変えない限り、悠仁さまが、やがて皇位を継ぐほかない。私が以前に、本サイトの記事〈なぜ自民党と新聞は「愛子天皇」をタブー視するのか…「国民の声」がスルーされ続ける本当の理由〉で書いたように、「愛子天皇」についての国民の声と、メディアのズレは見逃せない。
どんな立場をとるにせよ、政治家は、いつまでも先延ばしにせず、責任と向き合わねばならない。その覚悟のために、腹をくくってもらうために、私たちは国政を託しているのではないか。
その覚悟がないからこそ、悠仁さまと愛子さまを比べる声がやまない。若く、前途のある2人の若者を、うつろいやすい世論にさらす無責任さは、あってはならない。
悠仁さまの会見は、そんな肝の据わらない政治家につきつけた最後通牒のように感じられる。