型破りな世界的登山家プルジャ氏が遭難死、一体何が起こったのか
プルジャ氏がヒマラヤ登山界にもたらした功績と、それを成し遂げた驚異的なスピードは、いくら強調しても足りないほどだ。筆者のふたりは10年以上にわたって山岳界を取材してきたが、プルジャ氏はまさに唯一無二の人物だった。
2019年、8000メートル峰の登頂経験はわずか数座という段階で、プルジャ氏は1シーズン中に14座すべてを制覇するという挑戦に着手した。当時の最速記録は、韓国のキム・チャンホ氏が保持していた7年10カ月だった。
元SBS(英海兵隊特殊舟艇部隊)の隊員であるプルジャ氏は、4月23日にアンナプルナから登り始め、10月29日にシシャパンマで最後の登頂を果たした。所要日数は189日、すなわち6カ月と6日だった。彼はこのチャレンジを「プロジェクト・ポッシブル」と呼んでいた。
ネットフリックスが2021年末に「ニルマル・プルジャ: 不可能を可能にした登山家(Watch 14 Peaks: Nothing Is Impossible)」と題したドキュメンタリーを配信したことで、プルジャ氏はストリーミング時代初のスター登山家となり、ヒマラヤ山脈における商業登山のあり方を一変させた。1シーズンにじっくりと時間をかけて1座の登頂に挑むのではなく、顧客たちは当たり前のように、複数の山に立て続けに挑むようになった。そして、その案内役を務めるのは、多くの場合、プルジャ氏と彼のシェルパ・ガイドのチームだった。
ネパール人登山家として前例のないほどの名声を得た一方、プルジャ氏は称賛と同じくらいの批判も浴びた。彼は酸素ボンベを使用した。固定ロープに頼っていた。現役最強のシェルパ登山家たちのあとについて、ノーマルルートを登っていた。プルジャ氏がやっていることは、「軍人によるロジスティクス問題の解決」にすぎないというのが、彼を批判する人々の主張だった。
そこでプルジャ氏は、2021年1月、冬のK2登頂を成し遂げた。登山界において、数十年にわたって「最後の偉大な初登頂」と呼ばれていた偉業だ。
彼は9人のネパール人登山家とともに登り、最後の数メートルは10人全員が互いに腕を組み、ネパール国歌を歌いながら山頂に立った。このときのプルジャ氏は、補助酸素を使わずに登頂を果たしている。
氏はかつて、このK2登頂についてこう語っていた。「わたしにはわかっていました。祖国のため、国民のためにこれをやらなければならないと。そして、正しい方法でそれを実現できるのはわたしだけだと」(参考記事:「冬のK2へ ネパール人の誇りを胸に」)
しかし2024年5月、プルジャ氏の評判が大きく傷つく出来事があった。ふたりの女性、フィンランド人登山家のロッタ・ヒンツァ氏と米国人医師のエイプリル・レオナルド氏が、プルジャ氏から性的嫌がらせを受けたと告発したのだ。プルジャ氏は弁護士を通じて、これらの告発は虚偽かつ名誉毀損であり、不正行為は一切行っていないと否定している。
「わたしの願いは安全に登り、降りてくることだけだ」
今回の登攀前に投稿されたインスタグラムのポストで、プルジャ氏はブロード・ピークへの挑戦について、遠征計画にあとから追加されたものだと述べている。この登頂に成功すれば、8000メートル峰14座すべてを酸素ボンベなしで2回制覇した最初の登山家になるまであと1座を残すだけだと、その投稿にはある。「ブロード・ピークよ、わたしの願いは安全に登り、降りてくることだけだ」と氏は記している。
世界で最も高い山々に挑む者たちにとって、死は常につきまとうリスクだ。2022年の取材において、プルジャ氏はこう述べている。「生まれた以上、死は必ず訪れます。わたしは旅を続けなければなりません。もっと大きな目標があるからです」
ギャラリー:冬のK2へ ネパール人の誇りを胸に 写真9点(2022年2月号)
冬のK2山頂を目前にして、酸素不足の体を気力で押し上げるニムス。彼を含め10人のネパール人で構成された登山隊は、予測不能の風と氷点下の気温、死と隣り合わせの危険を克服して、最も過酷な時期にこの高峰に登頂。さらにニムスは、そこに無酸素という厳しい条件も自らに課した。(PHOTOGRAPH BY MINGMA DAVID SHERPA)
文=Anna Callaghan and Grayson Schaffer/訳=北村京子