(社説)つなぐ’26 批判的思考のススメ 民主社会の基盤支える力に
政権批判に対し、嘲笑が飛び交う――。ネットの言論空間ではもはや見慣れた光景だ。事実に基づいて分析し、問題があれば論拠を持って指摘する。民主主義の基本であるはずの営みが、揶揄(やゆ)や冷笑にさらされる社会はどこへ向かうのか。危うさを感じざるを得ない。
■権力への監視は必須
昨年12月、森友学園問題の関連文書が新たに開示された。立憲民主党の川内博史衆院議員が「コツコツ読むしかない」などとX(旧ツイッター)に投稿すると、「いつまでやってんのw」といった匿名のリプライ(返信)が相次いだ。問題発覚から9年近く。粘り強く追及する姿勢を笑う投稿が目立つ。
石破政権で始まった文書開示は、これまで約8万9千ページが公開され、今後も続く。
川内氏によると、高市政権になってからこうした投稿が増えたという。朝日新聞社のメディア研究開発センターの解析でも、11月10日の衆院予算委員会で川内氏がこの問題を取り上げて以降、急増が確認された。
行政の私物化が疑われ、公文書改ざんや財務省職員の自死など、森友問題が社会に与えた衝撃は大きい。川内氏は「公開された文書に疑問があれば、国会で問うのは当たり前」と語る。その当たり前が嘲笑の的になるとは異常だ。
批判を忌避する言動は、台湾有事をめぐる高市首相の国会答弁に関する議論でも見られた。テレビの情報番組で、司会のタレントが「国内で政権をたたくように持っていったら、相手の思うつぼ」などと発言したこともある。
批判に対する批判はあってよい。しかし、権力者への批判自体を封じることは、民主主義の基盤である言論の自由を損なう。
日本はかつて「戦争を肯定する空気」に染まって、反戦の声が上げにくくなり、無謀な戦争を続けた。
多数派が常に正しいわけではない。小さな声が届かなくなれば、権力は暴走する。政治指導者には、少数の声であっても、真っ当な批判には謙虚に向き合うことが当然に求められる。
■批判と非難は異なる
憲法前文はうたう。「国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する」。政治家は単に「推す」だけの存在ではなく、「監視」すべき対象だ。応援したいのなら、むしろ疑問や批判を率直に伝えた方が、成長を促すことになる。
日本社会では、批判が人格攻撃などの「非難」と混同され、ネガティブに捉えられがちだ。感情的に攻めてはいけないが、ある人の主張や意見に対し、論拠に基づく異論をぶつけることは、人格の否定ではない。
むしろ批判や異論をきっかけに再考することで、よりよい解が生まれる。それを自発的に行う作業が、「クリティカル・シンキング(批判的思考)」と呼ばれるものだ。
京都大の楠見孝特定教授(教育認知心理学)はクリティカル・シンキングを、論拠に基づき、偏りなく、内省的で、問題解決を支えるスキルと定義する。
例えば、SNSなどの投稿や生成AIによるもっともらしい文章を直感で受け入れるのではなく、発信者は信頼できる人物(組織)か、根拠や一次情報はなにか、過度に感情をあおる表現になっていないかなどを確認する。
ネットショッピングではレビューに頼り切りにならない。ステルスマーケティングにだまされない。日常生活でも大いに役立つものだろう。
自分の思考・感情を振り返り、抑制する態度を持つこと。コスパ(費用対効果)やタイパ(時間対効果)重視の価値観から離れ、じっくり時間をかけて考えること。偽情報や誤情報が社会問題となる現代では、クリティカル・シンキングは民主社会の基盤を支える力となる。
■主権者としての役割
長い人類史の中では、近代民主主義の歩みはまだ始まったばかりだ。時々の「空気」に流されやすく、独裁や全体主義に傾いた過去の経験からもわかるように、もろく壊れやすくもある。
大切に守り育てるためには、主権者である私たちがしっかりと私たちの「代表」を監視し、必要なら批判の声を上げることが求められる。
多くの人にとってクリティカル・シンキングを政治の場で実践することになるのが選挙だろう。聞こえのよい公約ではなく、政治家や政党の実績や姿勢を吟味し、採点して投票する。進路選択や高価な買い物と同じように、時間をかけて慎重に判断することが必要だ。有権者がそうした投票行動を取れば、政治家も批判に対し、真剣に耳を傾けるようになるだろう。
SNSで感情的な投稿を見たら一度立ち止まる。選挙時には公約ではなく実績を調べて評価してみる。新年を迎えた今、時間をかけて考えてみてはどうだろうか。