「地方国公立は歳を取れば取るほど入りにくい」 京都大学に12年在籍も中退→42歳で医学部を目指して再浪人した彼の挑戦
今回は、東海中学校・高等学校から2浪して京都大学農学部に進学。その後中退して経営者となるも、42歳から再度3浪して大阪医科薬科大学医学部に進んだビリおじさんにお話を伺いました。 著者フォローをすると、連載の新しい記事が公開されたときにお知らせメールが届きます。 ■2浪で京大に合格も中退→42歳で医学部受験 今回お話を伺ったビリおじさんは、一度2浪で京大に合格した方です。 京都大学に入ってから事業を始めたビリおじさんは、事業を続けていたこともあって12年間京大に在籍した末に中退をします。
しかし、42歳になった彼は再び医学部を目指すために浪人を決断し、3浪を決断しました。 どうして42歳でもう一度受験勉強をしようと思ったのか。 彼の人生に迫っていきます。 ビリおじさんは愛知県名古屋市の港区に、建設業を営む父親と、専業主婦の母親の間に生まれ育ちました。高学歴家庭ではなかったようですが、小さい頃はKUMONに通わせてもらい、公立小学校までの成績はいい方だったそうです。 「中学受験はしようと思ったことはないのですが、母親から『あんたみたいな子は世の中にいっぱいいるから、井の中の蛙になってはだめだよ』と言われ、受けてみるかとすすめられたのが東海中学校でした」
受験の3カ月前から東海中学校の過去問を買ってもらって勉強を始めたビリおじさんは、なんとか東海中学校・高等学校に合格することができました。 ■「京都大学や神戸大学がいい」 愛知県でも有数の進学校、東海中学校・高等学校に進学したビリおじさん。 「周囲が優秀だったから衝撃を受けた」と語る学生生活は刺激的でした。 「中学受験の勉強もあまりしてなかったのでエネルギーがありました。中1の中間・期末テストではここが大事だから頑張ろうと思って、一生懸命勉強した気がします。頑張って半分より上にいられれば、この学校でもついていけるかもしれないと思っていました」
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一生懸命勉強した甲斐もあってか、入学当初は同級生400人中の上位100番くらいの順位でした。しかし、中学で水泳部、高校でアメフト部に入り、部活に熱中したこともあり、高校生活の後半では200位くらいでギリギリ半分くらいになっていたそうです。 志望校については、高校1年生で関西の大学を同級生と見に行ったときに、京都大学や神戸大学がいいなと考え始めます。一方で、周囲の多くが目指す医学部を、自分も目指すかどうかは高校3年生の最後の最後まで悩んでいました。
「うちは医者家系ではないし、僕も生物が好きだったので、生物を勉強しながら手に職がついたらいいなって感じでした。だから医学部を選ぼうとしていたのですが、農学部や理学部も選択肢に残っていて、そこまで『医師じゃないといけない!』とは思いきれていませんでした」 模試では医学部はE判定ばかり。悩んだまま受けた現役時のセンター試験は8割程度で、河合塾のセンターリサーチもE判定でしたが、前期で神戸大学の医学部を受験して不合格となり、浪人が確定しました。
■2浪目、秋以降の追い込みで京都大学に合格 ビリおじさんに浪人した理由を伺ったところ、「国公立に行こうと思っていたので、1年くらい浪人するのは仕方ないと思っていた」と答えてくれました。 「高校3年生のときは浮ついた感じでした。浪人するんだろうなと思いながら勉強していたので、その通りになってしまいました」 この年は駿台予備学校に通い、秋くらいまでは1日10〜12時間程度勉強を頑張っていて、医学部の判定もD判定からC判定と、徐々に上がっていきました。
しかし、秋頃になると付き合っていた彼女に振られてしまい、そのショックで勉強しなくなってしまいます。 後半追い込みきれなかったことが響いたこの年のセンター試験は86〜87%。 A日程で大阪市立大学の医学部、B日程で名古屋市立大学の医学部を受験しますが、合格には至りませんでした。 「大阪市立大学に合格した! と確信していたので、名古屋市立大学の医学部は受験しに行きませんでした。その後不合格であることがわかって、アホなことをしたと思い、後悔で布団から出られない生活を送りました」
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こうして2浪目に突入したビリおじさんは、半ば自暴自棄になっていたためか、そのままずっと遊び続ける生活を送ります。 1浪の秋から2浪の秋まで1年間、まったく勉強をしない日々が続きますが、センター試験の申込書が届いて初めて、「もう1年浪人するのは絶対に嫌だ」と思い立ち、最低12時間、多いときは16時間と、起きている時間を全て勉強に注ぎ込む決意で頑張りました。 模試はほぼ受験していなかったものの、この年のセンター試験は9割を確保。
医学部を狙える成績だったために前期で神戸大学の医学部を受験しますが、またしても不合格。しかし、幸い後期で受験した京都大学の農学部に合格したため、2浪で京都大学に進学することが決まりました。 2浪で京都大学の農学部に入ったビリおじさんは、京都大学に4年行って4年留年、4年休学と、12年間京都大学で学生として過ごした後、中退します。 「そのときは農学部での勉強内容にそこまで興味を持てず、大学に入って3年はアルバイトしかしていませんでした。3年目に自分でカフェを作って経営するために休学したのですが、4〜5年飲食店の現場で働いた後に京大に復学したら、勉強がすごく楽しいなと思えたんです。だから2年間ほどは真剣に大学に通って研究室に所属して卒業論文を書いていたのですが、インドネシアのバリ島で宿泊施設を運営することになり、そちらに全力投球しなければいけなくなりました。110単位は取っていたのですが、卒業要件に足りずに放校になるところだったので、もしもう一度大学に入った際に取得した分の単位を認定してもらえるようにしたいと思って自主退学しました」
事業を展開しながらも、「途中からずっと医学部に行けるタイミングがあれば行こうと思っていた」と医学部への思いは消えなかったビリおじさん。 そこからずっと飲食店やバリ島のスパを経営していたビリおじさんでしたが、お客さんの多くが会社を休職している社員だったため、その人たちを元気にするためにヨガや食事のプログラムをしっかり勉強しなければならないと感じます。 そして38歳のときに家族に相談し、事業を売却して再受験をするための準備を始めました。
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■42歳から医学部に向けての再浪人開始 38歳頃から3〜4年かけて、予備校講師の仕事をしつつ、事業を売却したり畳んだりしていったビリおじさんは、42歳のときにようやく勉強の体制が整ったと感じ、YouTubeチャンネル「ビリおじチャンネル」を立ち上げ、YouTubeでの勉強発信を始めます。 「42歳からもう一度、医学部受験にゼロから取り組むというドキュメンタリーを撮ろうと思い、YouTubeで世の中の人に医学部に行くと宣言しました。ですが、最初は自分もまだまだ医学部受験を舐めていたと思います。かつて自分が大学受験をしたときと同じように真剣に何カ月かやれば戻ると思っていましたが、予備校講師の隙間時間で真剣にやれば戻るってわけではありませんでした」
この再度の浪人1年目は「無惨な成績だった」と振り返るビリおじさん。 センター試験では75%程度しか取れず、前期試験では愛媛大学医学部、後期では岐阜大学医学部を受けますが全滅に終わります。 浪人生活2年目は共通テスト1年目。2次試験の対策をしたこともあって前期で受けた琉球大学医学部、後期で受けた山梨大学医学部はそれなりに善戦したようですが、またしても共通テストのパーセンテージが足りなかったことと、面接点が低かったことが響いて落ちてしまいました。
再度の浪人も3年目に突入したビリおじさんですが、ここで彼は私立大学を受ける決意をします。 ■「地方国公立は歳を取れば取るほど入りにくい」 「国公立は、前期と後期は琉球大学を受けたのですが、大阪医科薬科大学の過去問が国公立の問題と傾向が似ていたために受けてみようかなと思ったんです。私立はお金がかかるので家族でも話し合って、安いに越したことはないから琉球大学に行ければいいけど、妻の仕事も大阪にあったので、『大阪の方が、便がいいかもしれないね』という話にもなりました」
この年は共通テストが85%で、河合塾の共通テストリサーチでも琉球大学の医学部でB判定が出たように、着実に力をつけていたビリおじさん。しかし、2次試験で失敗をしたことと、昨年度よりもさらに面接点が低くなったことから、「地方国公立は歳を取れば取るほど入りにくいと思った」といいます。 幸い、併願で受けていた大阪医科薬科大学に合格できたため、無事に再度の3浪で長い間夢見続けていた医学部に入ることができました。
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現在、大阪医科薬科大学の3年生として、勉強を続けているビリおじさん。 浪人してよかったことを聞くと、「一歩踏み出すことに勇気を持てるようになった」、頑張れた理由については、「医者になるという目標が明確だったから」と答えてくれました。 「浪人して一度道を踏み外したことで、視野が広がったのではないかなと思います。現在、留年をして2回目の3年生をしています。若い頃の留年・浪人と違ってものすごくショックでした。でも、1年前は中弛みなのか試験をクリアしていくだけの感覚だったのですが、人生で医学部の同級生が人の2倍できたと考えたら、前向きに捉えられるようになりましたし、勉強も楽しくなりました。そのおかげで、前期は再試もなく、すべてストレートで通ることができました。2浪して京大に入ったのもそうですが、自分は早く物事を理解できるタイプではなく、時間をかけて理解したらそれを楽しめるタイプだと思っているので前向きに学び続けていきたいです。将来の目標ももう定まっていて、心療内科に進んで、クリニックを開業できたらいいなと思っています」
また、浪人して変わったことを聞くと、「精神的な深みを作ってくれた気がする」と答えてくれました。 「最初に2浪をしていたときも、ずっと心が曇り空みたいな気持ちで生活していました。遊んでいても、何をしても心が晴れない状態でした。浪人を経験したことで、人生にはそのような時期もあるんだと知ることができてよかったなと思います。 今までその様子をSNSで発信してきたことで、いろんな人たちが『励みになった』とか『勇気をもらった』とか、SNSを通じてメッセージをもらっています。その経験自体が、SNSで自分をさらけ出して発信してきて良かったなと思うことなので、引き続き、自分は少なくともあと3年は医学部で学生をしながらですが、歩んでいく道のりを、所属先に迷惑をかけないように発信をしていくので、おじさんの行く末を見届けてください。X、YouTubeに加えて、最近ではTikTokにも挑戦しているのでフォローしてやってください」
■人生の酸いも甘いも経験 医学部に入るまで自分の受験の様子について発信し、医学部に入ってからも発信を続け、多くの受験生に勇気を与えているビリおじさん。酸いも甘いも経験した彼は、きっとつらい境遇の人たちの気持ちがわかる立派なお医者さんになるのだろうと思いました。 教訓:一度道を踏み外すと、視野が広がる
濱井 正吾 :教育系ライター