かばんにはいつも辞表 日本で最初の「トランスジェンダー大学教員」
明治大学で3月、非常勤講師としては異例の「最終講義」を迎えた教員がいました。140人を超える聴衆に2時間語りかけたのは、トランスジェンダーを公表している身としては日本で初めて大学教員になった三橋順子さん(71)。明治大で講義した14年間、かばんにはいつでも提出できるように辞表を潜ませていました。(朝日新聞withnews・川村さくら)
違和感は幼少期から
三橋さんは1955年、埼玉県秩父市で医師の両親のもとに生まれました。割り当てられた性別は男性でした。
幼少期から性別への違和感がありました。祖母の家の広間で行われているバレエ教室に、妹は参加しているのに、男の子とされている自分は入れてもらえない。
もどかしくて腹が立って、庭から広間に向かって石を投げたこともありました。
渋谷駅ホームで「ああなりたい」
「女性になりたい」という自分の気持ちをはっきりと自覚したのは、21歳のときでした。
母の影響で幼少期から文学や地図に慣れ親しんでいて、東京・渋谷にある大学で歴史学を専攻していました。
後ろの駐車場の場所にかつて三橋さんが初めて足を踏み入れた女装クラブがあったという=2026年2月19日、東京都新宿区、川村さくら撮影ある日、渋谷駅のホームで1人の女性の姿が目にとまりました。タイトスカートにブーツを合わせたスタイルに見とれ、「ああなりたい」と思いました。
けれど行動に移すことはなく、古代史で修士号を取り、大学で働いていました。
「やっと出てこられた」
初めて女性の服を身につけたのは、30歳のとき。交際していた女性との婚約後、「一度だけ…」とこっそり通販で購入した服に自宅で袖を通しました。
「やっと出てこられた…」。鏡の中で女性の服を着た自分がそう話したように感じたといいます。
性別違和という言葉も、今では国際的な疾患名としては廃止されている「性同一性障害」という呼び方すらもない時代。自分が何なのか分からず、一番苦しかった時代だと言います。
やがて「開き直り」、女装クラブに通い出し、女装の完成度を競う「競技女装」の世界にも入りました。コンテストでは最多得票特別賞を連続で受けたこともあったといいます。
歌舞伎町で働き、聞き
1995年ごろから6年ほどは新宿・歌舞伎町の女装スナックやニューハーフバーで手伝いをしました。
歴史学が専門の三橋さんは、ママや常連客から女装コミュニティーの歴史を聞き集めるようになりました。
新宿・歌舞伎町の女装クラブを手伝っていたころの三橋さん=本人提供接客しながら脳内で記憶し、大事なことはトイレや廊下で胸元からメモを引っ張り出して書き残すこともありました。
「この世界の歴史を書き残すのは順ちゃんあなたしかいない」。ママから言われていました。
トランスジェンダー研究へ
そのうち、呼ばれて講演会など公共の場で女性の姿で発言する機会も増えていきました。
このころには、かつて在籍していた歴史系の学会からは「『惜しい人を亡くした』と死人のように扱われた」といいます。
一方で、中央大の教授から誘いを受け、1999年に「戦後日本トランスジェンダー社会史研究会」を立ち上げ、調査・研究を始めました。
初めて着物に袖を通したときの三橋さん=本人提供女装者や、女装者を愛する男性たちのライフヒストリーを聞き取ったり、過去に店で聞き集めた話をまとめたりして論文を書いていきました。
「ネオンきらめく世界からお日様の下へ」「歌舞伎町の女装ホステスからトランスジェンダー研究者へ」――。
過去の著作やコラムの中で、三橋さんは自分の経歴をそう表現しています。
中央大の講師に
トランスジェンダーであることを公表している立場として、「日本初」の大学教員になったのは2000年のことでした。
中央大の文学部兼任講師となり、さらに2005年以降にはお茶の水女子大、多摩大、都留文科大、東京経済大、明治大、早稲田大、関東学院大、慶応大、群馬大で講義を担当しました。
講義名は「現代社会研究」「トランスジェンダー論」「ジェンダー関係論」「セクシュアリティー論」などでした。
履歴書の性別欄は
明治大で任用されるにあたっては、履歴書の性別欄をめぐる「事件」もありました。
自分は「男」とは書きたくない。けど、「女」と書くと戸籍上の性別とは違ってしまう…。
トランスジェンダーであることを公表している人としては日本で初めて大学教員となった三橋順子さん=2026年2月19日、東京都新宿区、川村さくら撮影三橋さんが空白のまま提出したところ、人事課からは男と書くように言われました。
今後同じように大学教員になる後続のトランスジェンダーたちのことを考えると、三橋さんに妥協はできませんでした。
結果、空白でも受理するよう学長が人事課へ伝え、任用がかないました。
「講堂入り」の人気講義
2012年、明治大での開講初日、用意された大教室では立ち見が出る人気ぶりで、翌週から定員約500人の大講堂に「引っ越した」といいます。
70歳の定年を迎えた三橋さんの「ジェンダー論」の最終講義は今年3月10日に開かれました。
通常、非常勤講師の最終講義は開催されませんが、同僚の教員らの取り計らいで実現したものでした。
最終講義で話す三橋さん=2026年3月10日、東京都千代田区、川村さくら撮影「このホールで授業をすることを明治大では(殿堂入りにかけて)『講堂入り』というんだと以前学生さんが教えてくれました」
14年間「講堂入り」し続け、さらに一度も休講しなかったと、三橋さんはうれしそうに語りました。
日付を空けた辞表
トランスジェンダーであることを公表して教壇に立ってきた三橋さんには、強い覚悟もありました。
「私がトランスジェンダーであることについて、投書や電話、メールでいろいろ言われることがありました」
「大学に迷惑をかけるようなことがあれば、その場で即辞める覚悟で、いつもかばんの中のファイルに日付だけが空白になっている辞表を持っていました」
2025年の前期の講義を終え、定年退職まで残り半年となったとき、「もういいだろう」と辞表は破ったそうです。
「台木」の歴史を
トランスジェンダーをふくむ性的少数者たちの存在は、かつてに比べれば可視化されています。
正当な権利を求める運動も活発になりました。しかし、その前提として、歴史や文化の理解が欠かせないと三橋さんは指摘します。
その国の性愛文化のありようがどのように変遷していったのか、その中で性的マイノリティー的な人たちがどのように存在し、生き抜いていったのか…。
その国の歴史や文化についての知識なしに権利を語ると、それは机上の空論になりかねません。
最終講義を終えて駆けつけた人たちからたくさんの花束を受けとった三橋さん=2026年3月10日、東京都千代田区、川村さくら撮影そのことを、三橋さんは梅の接ぎ木にたとえました。
「白梅を台木にして紅梅をうまく接ぎ木すると、一つの木に紅梅と白梅が一緒に咲くんです。土着的な性愛文化に外来のLGBT文化を接ぎ木したいなら、台木をちゃんと理解しないとだめ」
自分がその「接ぎ手」になれたらと考えながら講義、講演、著述活動をしてきたという三橋さん。
これからも若い世代、とりわけそのなかの性的マイノリティー当事者たちに歴史と文化を伝えていきたいと語りました。
はにかんで最終講義を終えた三橋さんに、教え子たちから贈られた色とりどりの花束は、三橋さんが「接いで」きた結果咲いた花のように見えました。
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この記事を書いた人
- 川村さくら
- デジタル編成本部|withnews編集部
- 専門・関心分野
- 人権、差別、ジェンダー、サブカル