アルゼンチン最後の飼育ゾウが40年ぶりに解放、自由な保護区域へ、136年の飼育に終止符(ナショナル ジオグラフィック日本版)
2025年7月のある暑い日、アフリカゾウの「ケニア」は輸送用のコンテナからゆっくり出て、新たなすみかに入ろうとしていた。30分後、体重約6トンのケニアはコンテナから足を踏み出し、体のほこりを払い、しばし周囲を探索した後、赤い土の山で転がり始めた。 ギャラリー:新たなすみかで仲間と暮らす「ケニア」ほか 写真5点 「まるで小さな女の子のようでした」と、アルゼンチンのメンドーサ市で生物多様性とエコパークの責任者を務めるフアン・イグナシオ・オーデ氏は言う。氏がケニアと関わってきたこの3年間で、ケニアがはしゃいだり、全身を水浴びしたり、食事を楽しんだりする姿を見たのは初めてだった。 ケニアはアルゼンチンで飼育されていた最後のゾウだった。40年間を飼育下で過ごしてきたメンドーサ市のエコパークで数カ月間のリハビリを経た後、南米唯一のゾウのサンクチュアリ(保護区域)であるブラジルの「グローバル・サンクチュアリ・フォー・エレファンツ」に到着した。 2025年に実現したケニアの解放を可能にしたのは、国民からの圧力の高まりと動物保護団体の働きかけを受けて2016年に可決されたアルゼンチンの法律だ。この法律は、国内の動物園を閉鎖してエコパークに転換させ、エキゾチック・アニマル(ペットや家畜として飼育されてきた動物以外の動物)をサンクチュアリや保護センターに移すことを義務付けるものだった。 ケニアと共にブラジルへ向かったチームによると、ケニアはサンクチュアリに到着した際、大きな鳴き声を上げたという。それはまるで、ラテンアメリカで2番目に大きい国アルゼンチンで136年間にわたったゾウの飼育の歴史に終止符を打つ、勝利の入場を告げるかのようだった。
ここまでたどり着く道のりは険しかった。 アルゼンチンで移送対象に選ばれた最初のゾウは、アジアゾウの「ペルーサ」だった。ラプラタ動物園にいたペルーサも、ケニアと同じように生涯を孤独に過ごしていた。しかし2018年、グローバル・サンクチュアリ・フォー・エレファンツへの移送を数日後に控え、52歳で死んでしまった。 悲劇はそれだけではなかった。幼い頃からサーカスで芸をしていたアジアゾウの「メリー」は、民間動物園で飼育されていたが、ペルーサと同じく2018年に50歳で死んでしまった。 2024年には、移送と国境を越えるための国際許可を待っていたアフリカゾウの「クキー」が、わずか34歳でこの世を去った。そして、2025年のケニアの移送のわずか数週間前には、すでにリハビリを終えていた55歳のアジアゾウのオスである「タミー」も死んでしまった。 野生下での健康なゾウの平均寿命は60歳から70歳だが、閉じ込められている状態(飼育下)のゾウの場合、大幅に短くなる。 アルゼンチンからの全てのゾウの移送を計画した非営利団体「フランツ・ウェーバー財団」のエクイティ・サンクチュアリ責任者であるトマス・シオーラ氏によると、ケニアの場合、数十年にわたる飼育下での生活が徐々に、しかし容赦なくその体をむしばんでいったという。運動不足による脚の問題、筋力低下、腸疾患、肝臓病などだ。 「冬は非常に寒く、夏は非常に暑いです。そして、敷地は限られており、地面は硬かったです」と、オーデ氏はメンドーサ動物園の状況について語る。 メンドーサ動物園は2016年に閉鎖され、絶滅危惧種の在来種を飼育せずに保護するための施設であるエコパークに生まれ変わった。「私たちには、ゾウが必要とする専門的で集中的なケアを提供するための施設も予算もありませんでした」 2008年、現メンドーサ・エコパークの評議員であるレアンドロ・フルイトス氏は、メンドーサ動物園の閉鎖を求める署名活動を始めた。フランツ・ウェーバー財団の代表として、氏はメンドーサ州政府や国際機関との交渉を主導し、許可の取得に奔走した。しかし、氏が「政治的な気まぐれ」と表現する理由で、他の2頭のゾウの許可は4度、ケニアの許可は3度も失効した。 メンドーサ動物園は閉鎖以来、一般公開されていない。この10年間で、園内にいた1500頭以上のエキゾチック・アニマルが国内外のサンクチュアリや保護センターに移送された。このゆっくりだが着実な取り組みにより、残された動物たちはより広いスペースとより良い生活環境を得ることができる。動物福祉を確保するため、常に健康状態のチェックも行われている。 2016年以降、アルゼンチンの他のいくつかの動物園もエコパークに転換されたが、プロセスには時間と多額の資金が必要となる。 2020年にブラジルのサンクチュアリに到着した、アルゼンチンの他の動物園出身のアジアゾウ「マーラ」とアフリカゾウ「プピー」に、ケニアが合流したことは、長年の闘いと忍耐、そして喪失の証だ。ケニアが初めて赤い大地に転がった瞬間は、単なる自由の瞬間ではなく、そこへたどり着けなかった者たちへの追悼でもあった。