愛子さま23歳 「私、返事が遅いんですよね」とユーモアたっぷり 「ギリギリまで」の粘り強さは上皇さまのDNA
12月1日は天皇、皇后両陛下の長女、愛子さまの23歳の誕生日。愛子さまは今春に学習院大学を卒業し、4月から日本赤十字社に入社。勤務を続けながら成年皇族として公務に取り組んでいる。そうしたなかでも歴史や古典に触れ、「学び」を続けていらっしゃるようだ。愛子さまの指導をした学習院大学の恩師は、愛子さまの学生時代を振り返りつつ、誕生日へのメッセージを寄せてくれた。
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「敬宮さん、23歳のお誕生日おめでとうございます」
愛子さまの卒業論文の指導教員を務めた、学習院大文学部の中野貴文教授(51)は、そう言って微笑む。
4月から日赤に入社し、社会人として働く愛子さま。春と秋の園遊会や皇居での茶会などの行事に臨み、10月には初めておひとりの地方公務で佐賀県を訪問されるなど、成年皇族としての経験を積まれている。
しかし、愛子さまは就職ではなく、留学や大学院進学という選択肢はなかったのだろうか。
大学院については、院試を受ける学生は担当教員に連絡することになっている。
「少なくとも私は、大学院や留学について敬宮さまから相談を受けたことはありませんでした。日赤への入社も、1月に報道で知ったくらいですよ」
と、中野教授は苦笑した。
24年春、初めての園遊会で、最初こそ緊張した表情を見せていたが、すぐにいつもの春風のようなスマイルを見せてくれた愛子さま=2024年4月23日、東京・元赤坂の赤坂御苑、JMPA周りを和ます気質は学生時代から
園遊会や宮中茶会などでの様子から、愛子さまの周囲には和やかな笑みが絶えない。その朗らかな気質は、学生の時からのもののようだ。
学習院大の日本語日本文学科で学んだ愛子さまの卒業論文のテーマは、中世を代表する女流歌人の一人だった「式子(しょくし)内親王」と、その和歌に関する研究。
報道各社からの質問に対する文書での回答のなかで、愛子さまは「中世の和歌の授業を履修する中で、和歌の美しさや解釈の多様さに感銘を受けた」と説明。大学4年生に進む前に「中世文学で卒論を書きたい」と希望され、中野教授が指導教員を務めることになった。
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中野教授にとって、皇族の指導を受け持つのは初めてのことだった。
「はじめは緊張していました。しかし、敬宮さん自ら朗らかな空気をつくろうと冗談や世間話をされるので、他の学生と同じように指導することができました」
と中野教授は振り返る。
「先生わかっているのかな」と、ほほ笑む愛子さま
新型コロナ対策のため、大学3年生までの講義は主にオンラインだった。愛子さまはチャット機能で積極的にやり取りし、中野教授からの質問にも進んで答えていた。
受け持ったゼミの学生は13人だったが、「その中で一番、卒論について面談を重ねた学生かもしれない」と振り返る。
中野教授は、愛子さまを「おしゃべりが好きで、会話が弾む方」。中野教授が話題を振ると、間が開くことなく返事が返ってくるため、「会話のラリー」になるという。
面談をじっくり重ねたもうひとつの理由は、なにより愛子さまは論文や資料をじっくりと読み込むタイプだったことだ。
同じ分野で先に発表されている研究や資料があればそれを咀嚼し、自分の言葉で語ろうと努力されていたという。
こんなエピソードがある。
学習院大学では、講義を受けた学生がオンラインで教授や講師に感想などを送るシステムがある。「面白かった」とひとことだけ送る学生もあれば、学んだ感想やわからなかった点、質問を送る学生もいる。
中野教授の場合、締め切りは授業から2日後の23時59分。愛子さまはいつも締め切りギリギリに送ってくることが多かった。そして愛子さまは冗談めかして、こんな風に話していたという。
「私、返事が遅いんですよね。先生方わかっているのかな」
返事(講義の感想)が遅いのには理由があったと、中野教授は話す。
「敬宮さんは、なにを学び、どう感じたのかなど、時間ギリギリまで粘って丁寧なレポートを書いてくれました。学生から授業の手ごたえが戻ってくるのは嬉しいことです」
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一部のメディアで「愛子さまが課題レポートを締め切り日の23時台に提出した」という報道があった。
しかし、中野教授によると、感想の話と混在したもので、誤りだという。
「とはいえ卒論も、『すこしでもよいものに仕上げたい』と、締め切り日の直前まで推敲されていました」
ギリギリまで粘り強く文章などを推敲するのは、天皇家では時々耳にするエピソードだ。
平成の天皇に10年半仕えた故・渡辺允侍従長は、筆者にこんな話をしていた。
1994年当時に天皇だった上皇さまと美智子さまが、フランスとスペインを訪問した。外務省の儀典長であった渡辺さんは、当時の宮内庁長官から呼び出され、夜中の1時に宿泊先だった迎賓館に向かった。
すると奥の部屋では、上皇さまが同行記者団からの質問に対する回答を書いている。1問ずつ出来上がるたびに、美智子さまが部屋から運んできた回答の文書を長官と渡辺さんに渡し、「これでいいでしょうか」と確認をしていたという。
このときの2週間にわたる外国訪問はハードスケジュール続きで、その日の晩も遅くまで行事があった。疲れ切った上皇さまは、そのまま机に突っ伏して眠ってしまいそうになるのを我慢しながら、回答を作成されていたという。
「ぎりぎりまで精魂込めて推敲なさる両陛下(当時)のご様子は、忘れられないものでした」
と、渡辺さんは回想していた。
すこしでも良いものを――と最後まで推敲するのは、上皇さま譲りのDNAなのかもしれない。
愛子さまが、23歳の誕生日を迎えるにあたり宮内庁が写真を公開=2024年11月22日午後、皇居、宮内庁提供「愛子さまも学び続けて」と恩師
そして皇室には、天皇陛下をはじめ、大学や大学院を離れた後もライフワークとして研究を続けている方が少なくない。愛子さまも、歴史や古典に関係する施設をたずねるなど、学びを続けようとする姿が伝わってくる。
「大学の4年間という短い時間で教えることができる学問の範囲は本当に狭く、ほんの入り口にすぎない」
中野教授はそう話す。学生たちには機会があるごとに、文学や和歌を受け継いでいくとはただ「守る」ということではなく、「今の表現や生活に生かすこと」と伝えてきた。
学んだ古典の知識は、社会人として仕事をする中で、形を変えて活かすことができると、中野教授は語る。
「愛子さまにはぜひ、自身の核となる学問を学び続けていただきたいですね」
(AERA dot.編集部・永井貴子)
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