「敵の爆弾でシャベルを作る」? 昭和天皇が「敗戦」を確信した時
ガザやウクライナ。あるいはイランを見れば分かる通り、始まった戦争をやめるのは容易ではない。
第二次世界大戦では、日本人だけで300万人以上が亡くなった。敗戦の影響は、中国や韓国との「歴史認識問題」や、対等とは言いがたい日米関係など、「戦後81年」の今も色濃く残っている。
昭和天皇が日本史上有数の大事件であるこの戦争を終わらせる決断を、いつ、どのようにしたのか。
『昭和天皇独白録』(寺崎英成、マリコ・テラサキ・ミラー編著・文春文庫)は大日本帝国の迷走を浮かび上がらせ、「終戦」の難しさを教えている。
連載「名著を探訪」は戦争を題材とする優れた著作を読み解きます。 バックナンバーはこちらから。
「十死零生」の特攻を「忍びない」
1944年7月、米軍はマリアナ諸島・サイパンを日本軍から奪った。
そこから戦略爆撃機B29を発進させ、日本本土への無差別爆撃を進めた。日本の敗戦はもはや必至だった。
だが帝国陸海軍は局地的にでも米軍をたたき、その戦果によってより有利な条件で停戦にこぎつけるという「一撃講和論」を主張する。昭和天皇はこれに応じた。
米軍は10月、フィリピンに侵攻。6月のマリアナ沖海戦で機動部隊がほぼ壊滅していた海軍は、戦艦「大和」など主力戦艦を中心とする艦隊を出動させた。敵を追い落とすことを目指したが、失敗した(レイテ沖海戦)。
またフィリピン戦線では、爆弾を搭載した航空機が搭乗員ごと敵艦に体当たりする「特別攻撃隊」を出動させた。陸軍も続いた。
激戦地では戦死する可能性は高い。とはいえ、あくまでも生還するのが前提だ。この特攻は、成功すれば搭乗員は必ず死ぬ。「九死に一生」ですらない、「十死零生」の「作戦」であった。いかに戦時中といえども、「死んでこい」という作戦はめったにない。兵士の士気にもかかわる。
特攻を推進した大西滝治郎・海軍中将さえも「統率の外道」と言い切った。
本来あってはならない「作戦」なのだが、やらざるを得ない状況に追い込まれていた。昭和天皇は<特攻作戦といふものは、実に情に於て忍びないものがある…