「ひめゆりの塔」発言訂正の真意、私は事実を語った… 参院議員・西田昌司
五月三日、那覇市で開かれた「憲法シンポジウム」(沖縄県神社庁、日本会議沖縄県本部など主催、自民党沖縄県連共催)の講演で、私はいわゆる「ひめゆりの塔」について言及しました。具体的には「ひめゆり平和祈念資料館の説明ぶりは、『日本軍がどんどん入ってきてひめゆり隊が死に、アメリカが入ってきて沖縄は解放された』という文脈で書いているのではないか。これでは亡くなった方々は救われない。歴史を書き換えられると、こうしたことになってしまう」といったものです。
この発言は報道などで厳しく批判され、私は六日後の九日、報道機関の方々の前でこの部分を削除しお詫び申し上げました。沖縄において「ひめゆり」という言葉が伴う痛みや重さを十分に理解していなかったと思ったからです。ただ、これだけは記しておきたいと思います。その他の部分は嘘ではありません。事実です。
ならば、なぜ訂正やお詫びをしたのか。
私は様々な指摘や批判を受け、改めて「ひめゆりの塔」とは何だったのかを知るため、戦前に沖縄師範学校教授を務め、沖縄戦下では「ひめゆり学徒隊隊長」だった故・西平英夫氏が書かれた『ひめゆりの塔〜学徒隊長の手記〜』(雄山閣)を手に取りました。学徒隊は本当に悲惨な状況で、それでも健気に兵隊さんと一緒に日本のために戦われました。描写されていた彼女たちの姿は、涙なしには読めないものでした。同時に改めて尊崇の念を抱きました。
「ひめゆりの塔」が、県民の皆さん方にとって本当に耐え難い大きな苦しみの歴史、トラウマであるとの理解に立つと、いま沖縄の地でむやみやたらに口にする必要はなかった、私はそう反省したのです。いわば「TPO」を弁えない発言だった。これが、私が訂正やお詫びをした理由です。
ただ一方で小渕優子衆議院議員ら政治家やメディアから寄せられた「西田は『ひめゆりの塔』や資料館の展示について、正確な認識を持っていなかったのではないか」などといった批判には、かなり誤解もあったと思っています。
私の講演の主題はシンポジウム名の通り「憲法」であり、そして〝真意〟は日本の国家としての自存・独立に向けた問題提起にありました。沖縄こそ戦後体制の矛盾と歴史観のねじれを最も色濃く体現している地域です。いわゆる「東京裁判史観」がもっとも深く沈殿し、かつ、米国による戦後支配の名残が日常の中に残されています。こうした実態と向き合わずして、日本の主権や歴史観を回復する道筋は描けません。そして、そんな沖縄で憲法改正を志向される方々に向け「歴史観を取り戻さなければ、改憲はできない」とお伝えすることが講演の主眼でした。
しかも、厳密に言えば、あの講演は、改憲の志を同じくする限られた人数の人々に向けたもので、沖縄県民全員に向け、県民感情を刺激しようなどと考えて行ったものではありませんでした。しかし、なぜかそれが広く報じられてしまった。とても残念なことでした。
その真意については、地元テレビ局、琉球放送のYouTube「RBC NEWSチャンネル」で公開されているノーカット動画(https://www.youtube.com/watch?v=al6XVmlrCyg)で詳しく説明しており、そちらをご覧になっていただければ私の意図が理解していただけるのではないかと思っていますが、今回、こうした機会を得ましたから、改めて一連の内容について私の認識を説明したいと思います。
日本軍の「侵攻」米軍の「反攻」
まずは展示内容についてです。
「ひめゆりの塔」にはまだ私が京都府議会議員だった頃、後援会の皆さんとの旅行会で訪れたことがありました。
平成十七年の元日に発行した後援会の機関紙『show you』(四十二号)で、私は先の大戦中、沖縄での地上戦で軍人だけでなく、ひめゆり学徒隊をはじめ多くの県民が命を落とされていたことに触れた上で、次のように書いています。
ひめゆりの塔には、そうした物語が年表のようにして壁に掲示してありました。そこには、日本の「侵略」により戦争が始まり、米軍の「進攻」又は「反攻」により戦争が終わったと書かれていました。まさに東京裁判史観そのものです。ここには大勢の修学旅行生が見学に来ていましたが、彼らはどの様に感じていたのでしょう。きっと、戦争の悲惨さは伝わったことでしょう。でも、何故あの戦争が起こったのか。また、彼女たち始め多くの日本人が何故戦ったのか、その当時の国民の気持ちなど理解できないでしょう。これでは亡くなった方々にあまりにも無礼なことではないでしょうか。私は非常に情けない気持ちで一杯になりました。
この一節を書いたのは、沖縄訪問の直後でした。とはいえ、当時言及した「掲示」は現在のひめゆり平和祈念資料館には存在しません。これは同館側も発信されていますし、私も知人に依頼して確認しています。
共同通信が五月十日に配信した記事ではこの点について、「数少ない〝根拠〟は正確性が疑問視され『不十分な事実確認で、沖縄の歴史を否定している』と憤りの声が上がる」などと批判的に報じていました。同館の普天間朝佳館長も「『米軍の反攻によって戦争が終わった』という記述はない。資料館では、西田氏が言うような説明は過去も現在も一切していない」とコメントしていました。
しかしこの記事には、重大な矛盾があります。
記事では、私が発言で批判した「ひめゆり平和祈念資料館の説明ぶり」について、普天間氏が「2021年の改装前に展示していた、太平洋戦争の戦況図のことではないか」とも推測し、この「戦況図」は「実物は残っていないが、同じ図が載った当時の資料館ガイドブックには、日本軍の『侵攻』米軍の『反攻』と記されている」と書いています。「侵略」と「侵攻」はほぼ同義です。
つまり、同館はつい数年前まで私が講演した通り「日本の『侵略』により戦争が始まり、米軍の『進攻』又は『反攻』により戦争が終わった」という文脈で展示を行っていたということです。これはまさに「日本軍は悪、米軍は善」という東京裁判史観そのものだといえます。
沖縄県民斯ク戦ヘリ 後世特別ノ御高配ヲ
九日の記者会見で、「ひめゆりの塔」に関する発言を謝罪・撤回した後も、私の事務所には県内団体からの抗議が寄せられています。その中では「反省なき謝罪」「記憶の軽視」などと批判され、県議会でも「沖縄戦の実相をゆがめ、戦没者や戦争体験者を冒涜し、県民の尊厳を踏みにじる」などとする抗議決議が可決されました。
しかし、これらの批判や非難は、事実に冷静に向き合っているでしょうか。TPOを欠いた私の発言が沖縄の皆様の心情を傷つけてしまったことは、お詫びしなければなりませんが、事実は事実として、はっきり申し上げなければなりません。まさに二十年前、私が後援会機関紙で訴えたように、同館では「日本の『侵略』」と「米軍の『進攻』『反攻』」といった構図で先の大戦、或いは沖縄戦を理解させていた。私はそれは日本人として日本のために命を失った人々に「あまりにも無礼なこと」だと思います。
もちろん、「戦前の日本人がすべて正しかった」というつもりはありません。戦争以外の選択ができなかったのか、という問題提起はあり得るでしょう。しかしそれでも、「日本だけが一方的に悪い」という話にはならないはずです。
沖縄戦を巡る歴史認識は、単なる一地域の問題ではなく、戦後日本全体に直結しています。日本人として母国の歩みを見つめ、「なぜ戦わなければならなかったのか」「大東亜戦争とは何だったのか」との歴史を受け継いでいかなければ、「なぜあの戦争で死ななければならなかったのか」という問いに答えられません。
例えば、沖縄方面根拠地隊司令官だった大田実海軍中将は、「若キ婦人ハ率先軍ニ身ヲ捧ゲ看護婦婦ハモトヨリ砲弾運ビ隊スラ申出ルモノアリ」「日本人トシテノ御奉公ノ護ヲ胸ニ抱キツツ」などとした上で、「沖縄県民ク戦ヘリ県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」と打電し、自決しました。
この通り、沖縄県民は立派に戦ったのです。戦後日本の私たちが行うべきは「誤った戦争の犠牲者」といったレッテル貼りではない。それは余りに酷な話です。むしろ、示すべきは敬意であるべきです。少なくとも、私はそう思います。日本のために命をなげうった沖縄県民を「犠牲者」とだけ断じる歴史観を受け入れることは、私にはできません。
「東京裁判史観」
戦後の日本人は、自分たちの歴史観を奪い取られてきました。
日本が一方的にアジア各国に対して侵略戦争を仕掛け、アメリカに真珠湾攻撃をして、最終的には連合国に倒された。占領下にあった日本政府は、極東軍事裁判の判決を受諾し、いわゆる「戦犯」が処刑された。あわせて二度とそうした戦争をしない「不戦の誓い」つまり、憲法九条を含む、日本国憲法を制定することでやっと、独立が認められた—。
私たちはこうした歴史観を押し付けられてきました。主権と引き換えに「歴史の書き換え」を余儀なくされる悲しい選択を強いられたわけです。それが戦後の政治や経済、社会にどのような影響をもたらしたのかは明らかです。いわゆる「五十五年体制」の下、アメリカ中心の世界秩序で、「吉田ドクトリン」の軽武装・経済優先体制にどっぷりとはめ込まれ、そして現在に至ります。戦後八十年を迎えてもなお、日本は自らの歴史を取り戻せているとは言えません。
それは日本を占領したアメリカだけの手によって行われたわけではありません。戦後、一時期を除いて長期にわたり政権を担ってきた自民党の責任も大きいと思います。私も党所属の地方議員、国会議員を長く務めてきましたから当事者の一人であることは間違いありません。その責任は否定しません。だからこそ政治家として、こうした現状を問い直し、修正を試みることが責務だと考えています。
具体的にはこのほど上梓した『リターン トゥ ジャパン』(万来舎)で詳しく論じましたが、「自民党の『保守本流』とは一体何なのか」「『日本』を取り戻す、『日本』に返る必要があるのではないか」などといった問題提起を続けているのは、そうした思いからです。
占領中に作られた日本の仕組みや体制を国民にしっかりとお話しし、理解してもらい、歴史観を取り戻すこと。その先に、結果として憲法改正もあるはずです。沖縄での憲法シンポでも、聴衆の皆さんにはそうしたことを訴えようとしました。
「切り取られた情報」
今回の私の発言に対する批判の嵐を振り返ると、日本社会に言論封じの〝空気〟があったように感じます。
具体的には、これまで述べてきたような「歴史認識」そのものに触れること自体が禁忌になっているのではないか、ということです。
マスコミ各社も総じて「日本人悪玉論」ではない歴史観については存在を認めない雰囲気すらあります。憲法改正にはもちろん否定的。在沖メディアにはそれが特に顕著です。沖縄県の地方紙「八重山日報」の誠・論説主幹が書かれた『オール沖縄 崩壊の真実』(産経新聞出版)に詳しいですが、沖縄の、特に沖縄本島のマスコミの驚くべき実態が書かれています。今回の件でも〝印象操作〟で世論を煽ろうとしたのではないか、との思いは禁じ得ません。
私は記者会見などでは「切り取られた情報で記事が作られた」などと述べてきました。というのも、今回、「ひめゆりの塔」について触れたのは四十分強の講演中、ごくごく僅か、一分程度だったにもかかわらず、報道は全体の趣旨は取り上げず、「ひめゆりの塔」に関する部分だけをフレームアップされたからです。
私の発言に対する批判の多くが、「ひめゆりの塔」という語の重みに対するものであることは、真摯に受け止めています。沖縄県民の感情を徒にかきたてることは厳に慎むべきものです。
ただ、一方で今回、戦後の歴史観や展示された文脈を語ること自体が、許されざるものとされていないか、と感じざるを得ない場面にも遭遇しました。語ることそのものが「触れてはならない禁忌」になるとすれば、それは自由な言論空間にとっても危うい事態ではないでしょうか。
今後も私は、敬意と慎重さを持ちながら、「戦後日本がどのような歴史観を背負ってきたか」という問題には向き合い続けたいと考えています。
沖縄は紛れもなく「被害者」
沖縄では一九五二年の「サンフランシスコ講和条約」発効から遅れること二十年、一九七二年五月十五日の「沖縄返還協定」発効まで占領が続いていました。こうした経緯が今もなお、沖縄に大きな傷を残していることは疑いようのない事実です。その意味で、沖縄は紛れもなく「被害者」でしょう。今なお沖縄県にはアメリカ軍の基地があり、多くの県民の方々がその負担を強いられています。日米地位協定の関わる問題もあります。自分たちの国でありながら自分たちの主権が及ばないそういう仕組みというのは、一日も早く脱却しなければいけません。しかし、だからといって沖縄をめぐる歴史について真摯な議論ができないというのは明らかにおかしい。
「ひめゆりの塔」の近くには、県平和祈念資料館もあり、私の講演に関連して、「西田さんは『ひめゆりの塔』と県平和祈念資料館の展示を混同したのではないか」といった声もいただきました。
私はこれまで同館を訪れたことはありません。ただ、同館開館前の平成十一年、展示内容の〝変更〟を巡って紛糾したことを今回、知りました。自治労ホームページ内には、沖縄県職労がまとめられたとみられる「新沖縄県平和祈念資料館改ざん問題」との資料があります。その記述で具体的な展示内容は想像できるでしょう。
- 壕の模型は「住民の避難生活」「負傷兵の看護と自決の強要」等の場面が表現されている。当初の説明書によると「住民の避難生活」の場面では壕の中に十数人の住民が座り、左側に「銃を構え母親に幼児の口封じを命じる日本軍兵士」となっている。「負傷兵の看護と自決の強要」の場面では、負傷兵を看護する婦長や毛布を掛けられた遺体等とともに青酸カリ入りのコンデンスミルクを入れた容器を持った日本兵が描かれている。ところが、その後に製作された図案では銃を構えて立っていた日本兵が何も持たずに立っている表現に変えられ、自決強要の日本兵については壕の中からそっくり消えてしまっていたのである。
インターネット上などでは、同館を見学するなどした感想として、日本軍にはネガティブに、逆に米軍にはポジティブな印象を受けたといった声も確認できます。その結果、生まれるのは「アメリカが入ってきて沖縄は解放された」という印象でしょう。これはあまりにアメリカの立場に立った歴史認識ではないでしょうか。
果たしてこのままでいいのでしょうか。真の意味での日本の「独立」を果たすためには、やはり日本人がもう一度自分の頭で考え、自分の目で物を見て、流されている情報について何が正しく、何が間違っているかを取捨選択し、歴史を取り戻す必要があります。
私はいま、なお一層、沖縄県民の皆さん方の心に寄り添っていかなければならないと思っています。そして、あわせて、あの時代の沖縄で戦った県民たちについて、「犠牲者」という一語だけで語り尽くしてはいけないとも考えています。沖縄県民にも痛みもあれば、誇りもあったはずです。沖縄から誇りを語る機会が失われ、同時に本土側もその言葉を奪ってきたのではないか、という問いを私たちは引き受けなければならないのだと思います。
昭和百年、戦後八十年のこの年にこそ、私たちはもう一度、歴史を自らの言葉で語り直さねばなりません。私たちは、どのような歴史観で「リターン トゥ ジャパン」すべきなのか。それをいま一度考え直す時でしょう。
◇
今回の件で、沖縄在住の方から一冊の本が私に送られてきました。ひめゆりの塔を建立した金城和信氏のご子息、金城和彦氏の著作『嗚呼沖縄戦の学徒隊』(原書房)です。ひめゆり部隊、そしてひめゆりの塔の真実が記載されています。絶版となっていますが、国立国会図書館のデジタルコレクション(要利用者登録)やデジタル化資料送信サービスに参加する全国の図書館で閲覧可能です。是非とも多くの方に読んでいただきたい。合掌。
(月刊「正論」7月号から)
にしだ・しょうじ
昭和三十三年、京都市生まれ。滋賀大学経済学部卒業。京都府議(五期)を経て、平成十九年の参院選で初当選。現在、三期目。税理士。著書に「財務省からアベノミクスを救う」(産経新聞出版)「リターン トゥ ジャパン」(万来舎)など。