「何が神の国や」 80年前の大空襲、16歳の少年が見た惨劇

米軍機の空襲被害を受けた堺市内中心部=同市提供

 軍需工業都市だったかつての商都・堺市の旧市街は、大空襲を受けて火の海になった。敗戦間際の80年前、1945年7月10日未明のことだ。

 この時、米軍が無差別に落とす焼夷(しょうい)弾の雨の中を、少女と2人きりでくぐり抜ける16歳の少年がいた。

 そんな彼も今や96歳。「どんな人もあんな目に遭ったらいかん」という思いで、あの日のことを後世に伝えている。阿鼻叫喚(あびきょうかん)が聞こえたこの世の地獄は、今もはっきりと記憶に残っている。

中学で勉強ままならず

 堺市は、堀で囲まれた「環濠(かんごう)都市」として栄えたことがあった。

 その中心部、お茶を商っていた家で少年は生まれた。法制史が専門で大阪大名誉教授の山中永之佑(えいのすけ)さんだ。

 山中さんは41年、旧制堺中学(現在の大阪府立三国丘(みくにがおか)高校)に入学した。

 だが、動員されて勉強はままならず、工場で軍用機の装備品などを作った。本土決戦に備えたのか、和歌山県の海岸で防御施設の建設に携わったこともあった。

 食事は米ぬかとみそを混ぜて焼き、パンのようにしたものも出た。「今のみそとは違うし『まずい』ちゅうもんやないで」

 それでも吐き出すことはなかった。「だって、食べんと腹減るやん」

 軍事教練の先生は生徒を殴りつけていたこともあり、山中さんら生徒はその先生を心の中でばかにしていた。生徒の間では、えん戦の空気がただよっていた。

制服着たまま寝ていると…

 中学を卒業してから3カ月がたった45年7月、制服を着たまま寝るようにしていた。全国で空襲が相次ぎ、すぐ逃げられるようにするためだ。

 その月の10日未明。空襲警報が鳴り響き、跳び起きると蔵や工場が火を噴いていた。

 山中さんが外へ出ると、羽衣高等女学校に通っていた女子生徒が隣にいた。

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